書評
『ティンカーズ』(白水社)
世界そのものと混ざり合う、男たちの生と死
「死ぬ八日まえから、ジョージ・ワシントン・クロスビーは幻覚を起こすようになった」というのがこの小説の書きだしである。彼は高齢(一九一五年生れ)で、癌を含む複数の病に冒され、集ってきた家族に見守られながら、自宅の居間に据えたレンタルの病人用ベッドに横たわっている。ジョージの脳裡、もしくは心中に去来するもの、がまずある。記憶、思考、感情、幻覚。それらを、彼は回想しているというより体現している。そこがこの小説の凄さの一つ目で、ジョージの意識の流れは浮遊したり解体したりしながら時空を超え、世界そのものとほとんど混ざってしまう。たとえば冬のつめたい朝と、脚に当たる牛乳桶の感触と。灯油のにおいやカナダガンの小さな群れと。チキンとバターとパンと。銀行のロビーと。世界そのものなので、そこにはジョージの父親の人生も含まれている。祖父の人生も。クロスビー家の男性三代の生と死が、物語の軸といえば軸だ。無論、女性たちもいる。静かな、けれど激しい在りようでどの代にもいて、男たちのいなくなったあとにもい続ける数人は、墓石に刻まれた文字――自分の生年月日――が間違っていることに気づいたり、墓の前に植えたゼラニウムに毎日水をやり、「その場所が水はけのよい丘の斜面でなかったならば、花は一週間で溺死していたことだろう」という状態にしたりする。故人の形見の時計を十数個部屋に置き、「何か月も手をかけて微調整し」、「ぴったりそろって和音を打ち鳴らすと思えるような具合にして」、故人がそばにいると感じたりもする。言い忘れていたが、ジョージの晩年の職業は時計修理人(ティンカー)で、修理もする行商人(ティンカー)だった父親ハワードの職業と、名前および本質が共通する(もっとも、ハワードという男性の魅力と性質を如実に示すのは、「巡回中、鍋の修理をしたり石鹸を売ったりするほかにハワードが折に触れてしたこと」として描かれる、「狂犬病にかかった犬を撃ち殺す、赤ん坊を取り上げる、火を消す、腐った歯を引っこ抜く」などなどの方なのだけれど)。時計修理の手引書だという古書が、小説内に複数回引用されるのだが、時計、精密機械、歯車、時、動くことと止ること、部分と全体、といった物や言葉や概念は、手引書から離れて小説全体にひそみ、小説を、小説の外にひらいている。
凄さの二つ目は文章で、彫琢という言葉がこんなにぴったりくる文章は、滅多にないと思う。透徹という言葉も精確という言葉もふさわしいので、時間をかけてゆっくり味わった。ジョージの家の居間の様子も、三代にわたる夫婦のやりとりも、少年の目を通して見る世界も、癲癇(てんかん)という持病を持つハワードの身体感覚も。
とりわけ素晴らしいのは自然描写で、春に雪が降れば「根は解けた冷たい水を飲み、その冷たい飲み物のおかげで茎はまっすぐになり、しなやかで強健な花弁は本当に凍ってしまったわけではないので砕けやすくなってはいない」状態でラッパズイセンやチューリップが咲くのだし、冬の日没の光景は、「黄昏の、金属質の青のなかで燃えあがる、束の間の、つややかな、冷たい、緋色と乳白色の知性」を持っているのだ。訳者あとがきによると、著者は「詩と散文のあわい」に関心があるそうで、なるほどと思う。
「死ぬ八十四時間まえ」「死ぬ四十八時間まえ」と物語は進む。「あの最後に、この最後に」、人はみんな何を見て、どこに行くのだろうと考えてしまった。
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