書評
『ヴァレンタインズ』(白水社)
何かが決定的にそこなわれる瞬間
ひっそりして端正な、非常に現代的な短編集だ。抑制のきいた文章は清潔で、小ぶりできれいな、つめたいナイフを思わせる。あるいはあかるい月の光を。全部で十二の小説が、「一月」から「十二月」までの、そっけないともいえるシンプルなタイトルと共にならんでいる。タイトルからは、だから内容はうかがい知れない。全編、夫婦もしくは恋人同士をめぐる話なのだが、どの一編として似ていない。あたかも、小説までが本のなかで孤立しているかのようだ。頁(ページ)を繰るときの鮮度が、従ってきわめて高い。
十二編の、互いに全く似ていないこれらの小説が描きだすのは、けれど一様に、とりかえしのつかない瞬間である。何かが、壊れるのではなくそこなわれる瞬間。壊れてしまったのなら諦めもつく。けれど壊れてはいなくて、何かが決定的にそこなわれたのだとしたら、人はそれを受け容れるか、そこなわれてなどいないふりをするか、しなくてはならない。人生は続いていくものだからだ。愛情や信頼、それに時間に支えられた深い関係について言うなら、壊れるよりそこなわれる方がずっとたやすく、ある意味でずっと悲しい。
親しい、お互いを大切に思い合っている者同士のあいだでの失言が、たとえばそのいい例だ。他意なくこぼしてしまう本音。それは喧嘩(けんか)や口論や、日ごろのうっぷんをぶつけた暴言などよりずっと破壊的で、ずっと深く関係を揺らがせる。オラフ・オラフソンの小説において、職業とならんで重要なものに、だから会話がある。巧みに、慎重に配されている。登場人物の多くが自分をあまりおもてにださない、良識的な、控え目な人々であるためになおさら、言葉の一つ一つが青い炎の熱さを持ってしまう。
そこなわれることは、事故にも似てほとんど不可避なのだ。ディテイルのリアルさが、そこに軽みやあかるさや、色や匂いや手ざわりを与えている。
たとえば、ある夫婦がスキー場で、意図したわけではないのに、ふとしたことから互いを傷つけあってしまう「三月」という一編があるのだが、結婚二十周年の記念であるその海外旅行を妻がとても楽しみにしていて、「彼女は銀行で働いていて、ある金曜日に、仕事を終えたあと、たまたまホテルのウェブサイトを見つけた。それ以来ずっと、ホテルの写真をスクリーンセーバーにしていた」ことを、冒頭近くで読者は知らされている。スクリーンセーバーにしていた! ささやかだが、生々しく痛々しい。
あるいはまた、もう成人した娘のいるヨハンとカレン夫妻は、「早起きで、毎日を期待に満ちた前向きな気持ちで始めた。天候が許せば、長年手入れしてきた庭に座って、朝のコーヒーを飲みながら、新聞を読んだり、一日が始まってゆくさまをただ眺めて過ごした。庭には小さな噴水があって、小鳥がよく水浴びをした。羽づくろいをする鳥たちを眺めていると、ふたりの心はよろこびで満たされた」と語られる(「五月」)。実は妻には女性の恋人がいて、それを正直に告げて夫と別れるのだが、読者にとってショックなのは、妻がでていくことでも恋人が女性だったことでもなく、二人があんな風に幸福そうに、というよりおそらく事実幸福に、長年暮していたことの方だ。
結末の残酷さが光る「七月」「十一月」、結婚している女性の多くが動揺しそうな「九月」、著者の故郷でもあるアイスランドが色濃く描かれた「六月」など、他にもきっちり佳品が収められている。
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