書評
『石垣綾子日記』(岩波書店)
変転するアメリカに生きて
当世人気の村上春樹が愛してやまぬフィッツジェラルドについて、「この作者の夢は一九二〇年代アメリカの若い男女の憧れである」「彼の小説は、一九二六年、一九二七年という如く、一年一年変わったその時代の呼吸をよく捉えている」と、同時代を生きた人間として感慨を記す著者。同じく当世人気の四季のミュージカルの主人公「李香蘭」こと山口淑子と知りあって、「社会の動きを知り、まじめに行く人」と寸評し、その山口と恋人であった彫刻家イサム・ノグチとのしばしの別れに際して、「やはり、キッスのできないところは日本人なり」との鋭い観察眼をみせる著者。
一見今はやり風に紹介したが、実は半世紀も前の記述だ。著者は石垣綾子。一九二〇年代半ばに二十代で渡米し画家石垣栄太郎と結婚、四半世紀近くニューヨークを中心に活躍。戦中派にはきっと懐かしい名前だろう。本書は、彼女のニューヨーク生活最後の日記(一九四六―五一年)なのである。
冷戦と赤狩りのムードの中で追われるように帰国を決意した著者は、ローズベルトとニューディールの時代に生きた喜びを胸に、「アメリカ最後の二年間は、苦しく悲しかった」と率直に述べる。その心情を反映してか、日記を貫くキーワードはリベラル。その意味は進歩的、容共左派的なこと。だから政治に関する記述は、今日の目から見ると頑ななまでに親ソ的、親中共的である。
だが日記を読みすすむうちに、あの価値観の変転きわまりない時代のアメリカで、しかも壁に耳あり障子に目ありという状況の中で生き抜くためには、面従腹背は常のこととわかる。そうであればある種の教条主義を胸奥に秘めていなければ、精神的にズタズタにされたに相違あるまい。
日米多くの人々との出会いを、好悪の情をまじえて明確に記す著者の筆さばきはなかなかのもの。敗戦日本の社会生活についての聞き書きも臨場感あふれて面白い。それにつけてもどうして人名索引がついてないのだろう。思わぬ人との一期一会の様が、この日記が今刊行されることの現代的意味だというのに。まことに惜しい。
【下巻】
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