さまよう気持ちを許容する心の余裕
本を手にとり、350ページか、原稿の締め切りから逆算して、これくらいの時間があれば読み切れるなと頭の中でスケジュールを組み立てる。読み始めたものの、スマホでメールのやりとりをして、喫茶店に置かれている雑誌に浮気する。雨が降りそうだが傘がない。天気予報をチェックする。こうしてなかなか読み進められない。今、私たちはとにかく集中力がない。こっちを優先したらどうか、手短に楽しめるよ、という誘惑が常に入り続ける。どうすれば操られずに済むだろうかと考えながらも、手にはスマホが握られている。
本書に収録されている調査によれば、米国の大学生は平均して65秒ごとにタスクを切り替え、社会人が一つのタスクを続ける平均的な時間は3分だった。失った集中力と注意力をどうすれば取り戻せるのかを探る一冊だが、著者自身がその力の欠落に直面し続ける。
注意力が散漫になった社会では、ネットのショッピングサイトの「読み込みペースが一〇〇ミリ秒遅くなるだけでも、商品を買おうとページを見続けていた人がごっそりページを離れてしまう」。読み込みペースを遅らせないようにするばかりか、さらに素早くすることに心血を注ぐ。やがて、そのスピードにも消費者が慣れていく。
善悪が即座に決まる社会では、立ち止まって考える行為は、単に要領が悪いだけとされてしまう。問題解決力と問題を即断する力は異なるはずだが、全員が集中力を欠いた状態ではその検証さえ難しい。常に気が散っているので、広告やマーケティングの世界で進む「監視資本主義」への危機感も薄まる。自分の取捨選択が他人に握られているのに、自分で選択したと思い込んでしまう。
スーパーマーケットに行くと誰もが悩む。トマトを買いに来たけど、こっちのピーマンのほうが安いし美味しそう。冷蔵庫の中身を思い出し、先の予定を考えながら、どちらにするかを考える。人間の営みはこの連続だが、思考する力が落ちれば、腐りかけの野菜を売りつけられてしまうかも。「本を読んで理解するには、気持ちがさまようことを許容するだけの心の余裕が必要なのだ」とある。読書だけではなく、私たちはもっとさまよいながら、自分の決定に時間をかけなければいけない。
「アテンション・リベリオン(注意力の反乱)」なる言葉が出てくる。為政者が問題を先送りさせるためには、有権者の注意力を削るのが効果的だ。新しいスローガンや政策を投げ、興奮してもらえばいい。何人もの顔が浮かんでくる。
自分で選び抜いたと勘違いさせるのがもっとも不満が出にくい。「ストレスの増大、労働時間の増大、より侵襲的なテクノロジー、睡眠不足、食生活の乱れ」など、集中力と注意力を奪うものはひとつではない。誰もが自己分析を求められる本だが、まずは、そのための時間を確保するところから始めなければいけないのがしんどい。その過程でまた、こっちを優先したらどうか、と何かしらが囁(ささや)いてくる。必死にはね除ける。
……と、この原稿を書くまでに1時間弱。動画を見たり、耳かきしたり、もらった名刺の整理を挟んでしまった。みなさんは、この書評、別の作業をせずに頭から最後まで読み通してくれただろうか。