書評
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波書店)
自分は経営者に向いていないという考えはビジネスマンになってからも長い間僕を苦しめていた。ただ、小説家や詩人としてやっていく自信がないから、生活の糧を得るために勤めているのだという意識は百貨店の店長という立場になっても変らなかった。
学生時代マルクス主義に埋没し、やがてそのための運動に失敗した後、僕にはこれという思想的根拠がなかった。アダム・スミスからリカード、マルサス等の経済理論は全く勉強もしていないのに、なんとなくもう卒業したような気分になっていたから、無知に近い状態で経営的な現実に対応していたと言えそうである。
そんな時、マックス・ウェーバーに出会ったのだ。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は勃興期の産業人・経営者には明確な精神性が備っていたことを詳細な資料の読み取りによって実証していた。これは僕にとって予想外の発見であった。それは後にケインズやハイエクを読んだ時とも違って、経済理論や経済政策の勉強をするという意識ではなく、産業社会に生きる生き方の問題としてのマックス・ウェーバー摂取だったのである。それを僕は勝手に、倫理性を持たない経済人は産業社会の本当の中心人物ではあり得ないというふうに読み替えてもいたのである。
そういう意味で僕は今でもこの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を人生の書という範疇で受けとめている。
学生時代マルクス主義に埋没し、やがてそのための運動に失敗した後、僕にはこれという思想的根拠がなかった。アダム・スミスからリカード、マルサス等の経済理論は全く勉強もしていないのに、なんとなくもう卒業したような気分になっていたから、無知に近い状態で経営的な現実に対応していたと言えそうである。
そんな時、マックス・ウェーバーに出会ったのだ。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は勃興期の産業人・経営者には明確な精神性が備っていたことを詳細な資料の読み取りによって実証していた。これは僕にとって予想外の発見であった。それは後にケインズやハイエクを読んだ時とも違って、経済理論や経済政策の勉強をするという意識ではなく、産業社会に生きる生き方の問題としてのマックス・ウェーバー摂取だったのである。それを僕は勝手に、倫理性を持たない経済人は産業社会の本当の中心人物ではあり得ないというふうに読み替えてもいたのである。
そういう意味で僕は今でもこの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を人生の書という範疇で受けとめている。
ALL REVIEWSをフォローする







































