本文抜粋
『アフリカ人学長、京都修行中』(文藝春秋)
月刊ALL REVIEWS第27回「ウスビ・サコ(京都精華大学学長の) × 鹿島 茂(仏文学者)、ウスビ・サコ『アフリカ人学長、京都修行中』を読む( https://allreviews.jp/news/5407 )」が2021年3月20日(土)19:30~21:00にオンライン開催。
ALL REVIEWSでは『アフリカ人学長、京都修行中』(文藝春秋)から一部抜粋しお届けします。
プロローグで少し触れましたが、そもそも、私が京都に来た時のきっかけは、東京で滞在させてもらっていた家の人から、「祇園祭でも見てきたら?」と勧められたことでした。その結果、私は京都にすっかり根を下ろしてしまったわけですが、いま思えば、あれは「そろそろ、出て行ってくれない?」という遠回しなお願いだったのでしょうか。
この話をすると、「サコ先生、よそ様の家に何日も滞在して、よく平気でしたね!」と、知り合いの日本人から呆れられます。
「迷惑だな」「嫌だな」と思っても、それを相手にそのまま伝えない。言われた人が不愉快にならないよう、婉曲な表現をすることで、相手が気づくよう仕向ける。これは日本人特有のコミュニケーション術ですね。
しかし、外国人には高度すぎて、なかなか理解できません。「言いたいことがあったら、はっきり言ってよ!」と叫びたくなったことは、一度や二度ではありません。
日本人のコミュニケーションは、外国人には本当に難しいと思います。しかし日本で長く暮らしてみると、日本人どうしでも「あの人は何を考えているのか、さっぱりわからん」といった陰口をよく聞きます。「日本人もお互いにわかってないのか!」と驚くことはたびたびありました。
とくに、京都には京都特有の「遠回しな表現」があります。そのわかりにくさは日本人のあいだでも、しばしばネタにされるほどです。
ほかにも、わかりにくい「京ことば」として、こんな事例が(ネット上で)紹介されています。
「はんなりしてはるわぁ」=「早くしてくれへん?」
「しっかりしてはるわぁ」=「セコいなぁ」
「えらいお人やなぁ」=「何様のつもり?」
「お忙しいのと違いますの?」=「いま誘ったの、社交辞令やから断って!」
「よろしいなぁ」=「ふーん(興味なし)」
おだやかな口調に込められた、わかりにくい「NG」サイン。京都には「京都人コード」とも言うべき、暗黙のルールがあります。これを読み解くことが、京都人とうまくやっていく秘訣なのです。
たとえば、何かにつけて「よろしいですか?」と聞いてくるのも、京都人独特のスタイルでしょう。確定したはずの話でも、必ず確認を取ってくるのです。
「では、待ち合わせは三時にしましょう」
「わかりました。三時でよろしいですか?」
「いや、だから三時で」
「はい、それでよろしいですね?」
こんな具合に延々と確認が続くので、いつまで経っても話が終わりません。決断する立場になるのが嫌なのでしょうか。最終的に自分が責任を持つことを避けているのかもしれません。
その場合、約束の時間に訪問するのがマナーですよね。むしろ五分くらい遅れて訪ねたほうがいいと言う方もいます。相手が客を迎える準備に手間取るかもしれないという配慮からです。
私もほぼ時間通りに訪ねたのですが、よくよく話を聞いて見ると、そのお宅ではなんと昼から待機していたというのです。その日奥様は外出する予定があったそうですが、「サコ先生に一言ごあいさつをしてから」と、昼には準備を整えて、私がいつ来てもよいようにずっと待っていたといいます。
「それならそうと言ってくれれば、訪問時間を早めたのに」と思いました。そもそも「昼以降は空いている」などと余計なことを言わないほうがよかったのでしょうか。私は約束通りに訪ねただけなのに、まるで悪いことをしてしまったようで落ち着きません。三〇年も京都に住んでいるのに、いまだに京都人コードを理解しきれません。
当時、私は自宅に友だちを呼んで、よくホームパーティを開いていました。すると翌朝、近所の人と計画したかのように遭遇します。すると、ニコニコと満面の笑みをうかべてこう言うのです。
「なんか楽しそうやねぇ。いつも学生さんが多くていいねぇ」
「あなたが来てから、この町はほんま、にぎやかになったわ」
私はうれしくなって、「自分もこの町の一員になれたんだ」と安堵したものです。
ところが、あれは忘れもしない、日韓共催のサッカーワールドカップが開催された二〇〇二年のこと。「今日は日本の大事な試合だから、窓を開けて応援しないと!」とはりきって声をはりあげていたら、ドンドンドン! ドンドンドン! と、いきなりドアをたたく音が。なにごとかと思ったら、警察官でした。「ご近所から、やかましいと苦情が来ています」私は耳を疑いました。
「はあ? なんでやねん。苦情が出るはずないでしょ?」
「近所の人はみんな私のこと好きだって言ってくれてるよ。いつもにぎやかでよろしいなって!」
でも、冷静になって振り返ると、ホームパーティをした次の日に限って、必ず近所の人に声を掛けられる、というのは不自然でした。あの「楽しそうやなぁ」は全部、苦情だったのです。私がいっこうに気づかないものだから、近所の人も困り果て、ついに「通報」という最終手段に出たのでしょう。
いまから三年ほど前に、大学の関係者や近所の人が食べに来てくれるかなと思って、京都にある芸術大学の近くでマリ料理のレストランを開いたときのことも忘れられません。
大家さんには「こういう店を出しますよ」と事前に話をつけて、開店後しばらくは順調でした。ご近所からのクレームもなく、安心していたのです。そんなある日、大家さんがやってきて、ニコニコしながら奇妙なことを言ってきました。
「いやぁサコさん、近所に山本さんという人がいてね。『サコさんのお店、だいじょうぶかな? ちょっとうるさいかもしれない』って心配してはるんです」
「山本さんって、だれ?」と私がとまどっていると、「山本さんの娘さんが、学生時代にサコさんといっしょに勉強したことあるみたいで」と大家さん。
そう言われてみればたしかに、私が京都大学の学生時代、山本さんという友人がいました。でも、彼女はいまフランスに住んでいて、たまに連絡するくらいです。どうしてわざわざそんな人の話を出してくるのか。大家さんの真意をはかりかね、私は混乱していましたが、あとになってようやく理解したのです。
大家さんは、カフェから聞こえる音のことで、近所からいろいろ文句を言われていた。でも私に出店を許可した手前、いまさら「苦情が出ている」とは言いにくい。私が「近所の人ってだれ? 直接話をさせて」となれば、きっともめるだろう。そこで、私とつながりのある友人を探し出し、「心配している」と伝えてきたのです。
自分に縁のある人の言葉なら、私が素直に聞いてくれると思ったのかもしれません。
「山本さん」が本当にそんなことを言ったのかどうかは、わかりません。私は「いまから山本さんのところに行って確かめさせて」と言いたい衝動にかられましたが、それが大家さんのうそだったら、さらに気まずいことになる。そう考えて思いとどまりました。
京都人は、地縁をなによりも大事にします。大家さんにとって、店子の私たちよりも、地域の立場が大事であることは明らかでした。そのために、あれこれ悩んで知恵を絞ったのでしょう。
けっきょく、私は「山本さん」には一度も会うことのないまま、レストランを約一年で閉店することになりました。それは「山本さん」のせいでななく、音の問題でイベントや大人数のパーティが企画できず、思い通りの経営ができなかったからです。
あれは本当に残念な出来事でした。
自分が「当事者」としてかかわることは徹底的に避け、第三者を立ててメッセージを伝えてくる。自分がだれとも衝突しないよう、他人をダシに使うのが京都流なのです。「私は気にせえへんけど、みんなはこう言うてはる」という言い回しを、京都の人はひんぱんに使います。
このバリエーションとして、他人を非難することで、相手に注意を促すというパターンもあります。京都ではお客様をもてなすために、高価な茶碗や掛け軸を持ち出すことが多いのですが、「○○さんったら『立派なお茶碗ですねえ、おいくらですか』なんて、値段を聞いてきたんですよ。普通はそんなこと言わないものなのに」と愚痴を聞かされました。
これをただの愚痴と思って聞き流していると、えらいことになります。これは「物の値段を聞くなどと下品な真似をしてはいけない」という間接的な教えなのです。
そう言われると少し前、その人に連れていってもらったお店で、私も値段の話をしたような記憶がよみがえってきました。他の人への非難は、どうやら私に対するリマインダーだったようです。(「第一章 京都人コード」より)
※出演者はZoomにて参加されます。
https://allreviews.jp/news/5407
ALL REVIEWSでは『アフリカ人学長、京都修行中』(文藝春秋)から一部抜粋しお届けします。
京ことばはむずかしい!
日本に来て戸惑ったのは、日本人ははっきりものを言わないということです。プロローグで少し触れましたが、そもそも、私が京都に来た時のきっかけは、東京で滞在させてもらっていた家の人から、「祇園祭でも見てきたら?」と勧められたことでした。その結果、私は京都にすっかり根を下ろしてしまったわけですが、いま思えば、あれは「そろそろ、出て行ってくれない?」という遠回しなお願いだったのでしょうか。
この話をすると、「サコ先生、よそ様の家に何日も滞在して、よく平気でしたね!」と、知り合いの日本人から呆れられます。
「迷惑だな」「嫌だな」と思っても、それを相手にそのまま伝えない。言われた人が不愉快にならないよう、婉曲な表現をすることで、相手が気づくよう仕向ける。これは日本人特有のコミュニケーション術ですね。
しかし、外国人には高度すぎて、なかなか理解できません。「言いたいことがあったら、はっきり言ってよ!」と叫びたくなったことは、一度や二度ではありません。
日本人のコミュニケーションは、外国人には本当に難しいと思います。しかし日本で長く暮らしてみると、日本人どうしでも「あの人は何を考えているのか、さっぱりわからん」といった陰口をよく聞きます。「日本人もお互いにわかってないのか!」と驚くことはたびたびありました。
とくに、京都には京都特有の「遠回しな表現」があります。そのわかりにくさは日本人のあいだでも、しばしばネタにされるほどです。
「ぶぶ漬け」は本当にあるのか
一番有名なのは、「ぶぶ漬け(お茶漬け)いかがどすか」でしょう。京都人の家に招かれたとき、ぶぶ漬けを勧められたら、断って帰らなければいけない。真に受けて「じゃあ、いただきます」なんて言おうものなら、「なんて非常識で図々しい人やろか」とあきれられると言います。どんなににこやかに応対してくれていても、「ええかげん帰ってくれへんかな。そろそろ夕飯の支度をしたいんやけど」が本音というわけです。ほかにも、わかりにくい「京ことば」として、こんな事例が(ネット上で)紹介されています。
「はんなりしてはるわぁ」=「早くしてくれへん?」
「しっかりしてはるわぁ」=「セコいなぁ」
「えらいお人やなぁ」=「何様のつもり?」
「お忙しいのと違いますの?」=「いま誘ったの、社交辞令やから断って!」
「よろしいなぁ」=「ふーん(興味なし)」
おだやかな口調に込められた、わかりにくい「NG」サイン。京都には「京都人コード」とも言うべき、暗黙のルールがあります。これを読み解くことが、京都人とうまくやっていく秘訣なのです。
たとえば、何かにつけて「よろしいですか?」と聞いてくるのも、京都人独特のスタイルでしょう。確定したはずの話でも、必ず確認を取ってくるのです。
「では、待ち合わせは三時にしましょう」
「わかりました。三時でよろしいですか?」
「いや、だから三時で」
「はい、それでよろしいですね?」
こんな具合に延々と確認が続くので、いつまで経っても話が終わりません。決断する立場になるのが嫌なのでしょうか。最終的に自分が責任を持つことを避けているのかもしれません。
自宅訪問もむずかしい
先日はこんなこともありました。ある方のお宅を訪問することになり、私は「日曜日なら昼以降は空いているので、午後二時頃におうかがいします」と伝えました。その場合、約束の時間に訪問するのがマナーですよね。むしろ五分くらい遅れて訪ねたほうがいいと言う方もいます。相手が客を迎える準備に手間取るかもしれないという配慮からです。
私もほぼ時間通りに訪ねたのですが、よくよく話を聞いて見ると、そのお宅ではなんと昼から待機していたというのです。その日奥様は外出する予定があったそうですが、「サコ先生に一言ごあいさつをしてから」と、昼には準備を整えて、私がいつ来てもよいようにずっと待っていたといいます。
「それならそうと言ってくれれば、訪問時間を早めたのに」と思いました。そもそも「昼以降は空いている」などと余計なことを言わないほうがよかったのでしょうか。私は約束通りに訪ねただけなのに、まるで悪いことをしてしまったようで落ち着きません。三〇年も京都に住んでいるのに、いまだに京都人コードを理解しきれません。
褒め言葉を駆使したクレーム
私がその洗礼を最初に受けたのは、京都大学の大学院生時代でした。当時、私は自宅に友だちを呼んで、よくホームパーティを開いていました。すると翌朝、近所の人と計画したかのように遭遇します。すると、ニコニコと満面の笑みをうかべてこう言うのです。
「なんか楽しそうやねぇ。いつも学生さんが多くていいねぇ」
「あなたが来てから、この町はほんま、にぎやかになったわ」
私はうれしくなって、「自分もこの町の一員になれたんだ」と安堵したものです。
ところが、あれは忘れもしない、日韓共催のサッカーワールドカップが開催された二〇〇二年のこと。「今日は日本の大事な試合だから、窓を開けて応援しないと!」とはりきって声をはりあげていたら、ドンドンドン! ドンドンドン! と、いきなりドアをたたく音が。なにごとかと思ったら、警察官でした。「ご近所から、やかましいと苦情が来ています」私は耳を疑いました。
「はあ? なんでやねん。苦情が出るはずないでしょ?」
「近所の人はみんな私のこと好きだって言ってくれてるよ。いつもにぎやかでよろしいなって!」
でも、冷静になって振り返ると、ホームパーティをした次の日に限って、必ず近所の人に声を掛けられる、というのは不自然でした。あの「楽しそうやなぁ」は全部、苦情だったのです。私がいっこうに気づかないものだから、近所の人も困り果て、ついに「通報」という最終手段に出たのでしょう。
誰かわからない「山本さん」
日本人なら、「にぎやかになった」という言葉でピンとくる人もいるのかもしれません。でも、あんな満面の笑みで言われたら、外国人の私にはわかりようがない。遠回しにもほどがあります。日本語の教科書には、「京都人はうるさいなと思っても、絶対に言わない。にぎやかやなぁと言ってくる」と、ぜひ書いておいてほしいものです。いまから三年ほど前に、大学の関係者や近所の人が食べに来てくれるかなと思って、京都にある芸術大学の近くでマリ料理のレストランを開いたときのことも忘れられません。
大家さんには「こういう店を出しますよ」と事前に話をつけて、開店後しばらくは順調でした。ご近所からのクレームもなく、安心していたのです。そんなある日、大家さんがやってきて、ニコニコしながら奇妙なことを言ってきました。
「いやぁサコさん、近所に山本さんという人がいてね。『サコさんのお店、だいじょうぶかな? ちょっとうるさいかもしれない』って心配してはるんです」
「山本さんって、だれ?」と私がとまどっていると、「山本さんの娘さんが、学生時代にサコさんといっしょに勉強したことあるみたいで」と大家さん。
そう言われてみればたしかに、私が京都大学の学生時代、山本さんという友人がいました。でも、彼女はいまフランスに住んでいて、たまに連絡するくらいです。どうしてわざわざそんな人の話を出してくるのか。大家さんの真意をはかりかね、私は混乱していましたが、あとになってようやく理解したのです。
大家さんは、カフェから聞こえる音のことで、近所からいろいろ文句を言われていた。でも私に出店を許可した手前、いまさら「苦情が出ている」とは言いにくい。私が「近所の人ってだれ? 直接話をさせて」となれば、きっともめるだろう。そこで、私とつながりのある友人を探し出し、「心配している」と伝えてきたのです。
自分に縁のある人の言葉なら、私が素直に聞いてくれると思ったのかもしれません。
空間に敏感だからこそ地縁が大切
こういう回りくどいやり方も、いかにも京都らしい。「山本さん」が本当にそんなことを言ったのかどうかは、わかりません。私は「いまから山本さんのところに行って確かめさせて」と言いたい衝動にかられましたが、それが大家さんのうそだったら、さらに気まずいことになる。そう考えて思いとどまりました。
京都人は、地縁をなによりも大事にします。大家さんにとって、店子の私たちよりも、地域の立場が大事であることは明らかでした。そのために、あれこれ悩んで知恵を絞ったのでしょう。
けっきょく、私は「山本さん」には一度も会うことのないまま、レストランを約一年で閉店することになりました。それは「山本さん」のせいでななく、音の問題でイベントや大人数のパーティが企画できず、思い通りの経営ができなかったからです。
あれは本当に残念な出来事でした。
自分が「当事者」としてかかわることは徹底的に避け、第三者を立ててメッセージを伝えてくる。自分がだれとも衝突しないよう、他人をダシに使うのが京都流なのです。「私は気にせえへんけど、みんなはこう言うてはる」という言い回しを、京都の人はひんぱんに使います。
このバリエーションとして、他人を非難することで、相手に注意を促すというパターンもあります。京都ではお客様をもてなすために、高価な茶碗や掛け軸を持ち出すことが多いのですが、「○○さんったら『立派なお茶碗ですねえ、おいくらですか』なんて、値段を聞いてきたんですよ。普通はそんなこと言わないものなのに」と愚痴を聞かされました。
これをただの愚痴と思って聞き流していると、えらいことになります。これは「物の値段を聞くなどと下品な真似をしてはいけない」という間接的な教えなのです。
そう言われると少し前、その人に連れていってもらったお店で、私も値段の話をしたような記憶がよみがえってきました。他の人への非難は、どうやら私に対するリマインダーだったようです。(「第一章 京都人コード」より)
【オンラインイベント情報】2021年3月20日(土)19:30~21:00 ウスビ・サコ × 鹿島 茂、ウスビ・サコ『アフリカ人学長、京都修行中』を読む
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