自著解説
『ピアノの日本史―楽器産業と消費者の形成―』(名古屋大学出版会)
音楽のジャンルを問わず、多くの人々に親しまれているピアノ。かつては「豊かさの象徴」でもあったこの楽器は、日本でどのように普及してきたのでしょうか。
今日世界的な楽器メーカーとなったヤマハ(YAMAHA)や河合楽器(KAWAI)から、戦後に誕生したコルグ(KORG)など電子楽器メーカーまで、これまで詳しく知られることのなかった鍵盤楽器産業の歴史を描き出した『ピアノの日本史』がこのたび刊行されました。
華々しい音楽の舞台裏で繰り広げられてきた、メーカーによる流通・マーケティング戦略など、ピアノの「裏方の歴史」は、いったいどのようなものだったのでしょうか。
以下、著者・田中智晃氏による書き下ろしの自著紹介をお届けします。
私はいつもこの質問に遭遇すると、長い説明が必要なため、返答に窮していた。もし私が幼いころからピアノを習っていたり、趣味で長くピアノを続けていたりすれば、「ピアノが好きだから」という簡単な回答で済んだに違いない。おそらく業界関係の方々も、このような回答を待っていたのかもしれない。しかし、私はヤマハ音楽教室でフルートを学んだことはあるが、ピアノを専門的に学んだ経験は一度もなく、ピアノ好きとは言えなかった。
本書の第4章で詳しく述べたが、日本ではピアノ販売に割賦販売を用いただけではなく、同じくミシン産業で使われていた予約販売という積立式の割賦契約を用いてピアノ市場を切り開いた。さらにヤマハは多くの消費者にアクセスし易いヤマハ音楽教室というサービスを生み出し、市場を拡大していた。この事実を知った時に「これが私の研究したい歴史だ」と確信したのであった。
このような製品は、経済学の分野では「合成財」と呼ばれている。経済学者の丸山雅祥先生は、製品それ自体に「付随サービス」が伴い、さらに両者が分離可能な製品を「合成財」と呼んでいる。ピアノでは、本体と音楽教育や各種サービスは分離可能である。例えば、ある消費者が河合楽器製のピアノを購入して、ヤマハ音楽教室で弾き方を習うことは可能なのである。これでは、音楽教育サービスに莫大な資金を投じているヤマハは、自身の製品売り上げに繋がらず、大きな商機を失うことになる。ピアノに限らず、合成財は常に製品とそれに伴うサービス(付随サービス)が切り離されないように、マーケティングや流通戦略を駆使して、分離を防止しなければならない。この仕組みと歴史を研究したのが本書である。
ただ、ピアノには、「合成財」としての販売の難しさと同時に、普及率の上限が歴史的に25%前後と低く、市場がすぐに飽和状態になるという問題もあった。ヤマハは1950年代に大量生産体制を確立していくが、それと同時にいずれやってくる普及率の限界についても対策をとっていった。戦後のヤマハ躍進の旗振り役であった川上源一社長(当時)は、楽器斜陽論者として常に未来を見つめていた。欧米の状況を見ると、ピアノはいつか斜陽産業化する。だからこそ、ヤマハは新しい消費者を開拓するヤマハ音楽教室を運営し、日本市場を離れて世界に目を向ける海外展開、他の商品にもすそ野を広げる多角化戦略をとったのであった。
冒頭の問いに戻るが、業界関係者から「どうして楽器、特にピアノを研究しようと思ったの?」と聞かれたときには、「割賦販売と予約販売に関心を持ったからです」と答えるようにした。このように答えると、「なんか面白い学生だな」と思っていただき、その後の情報提供を受けるなど、研究を進める中で役立った。読者の皆様も、今まで知らなかったピアノの経営史にこの本で触れていただき、「経済学・経営学の世界も面白い」と感じていただけたら著者としては大変嬉しく思う。
[書き手]田中智晃(東京経済大学経済学部准教授)
今日世界的な楽器メーカーとなったヤマハ(YAMAHA)や河合楽器(KAWAI)から、戦後に誕生したコルグ(KORG)など電子楽器メーカーまで、これまで詳しく知られることのなかった鍵盤楽器産業の歴史を描き出した『ピアノの日本史』がこのたび刊行されました。
華々しい音楽の舞台裏で繰り広げられてきた、メーカーによる流通・マーケティング戦略など、ピアノの「裏方の歴史」は、いったいどのようなものだったのでしょうか。
以下、著者・田中智晃氏による書き下ろしの自著紹介をお届けします。
どのように世界的楽器メーカーへと成長したのか。知られざる鍵盤楽器産業の歴史。
「どうしてピアノを研究しようと思ったの?」
私は学生時代から楽器産業史の研究を始め、多くの業界関係者にお会いしてきた。ヤマハや河合楽器などの大手メーカーだけではなく、中小メーカーの方々、卸売会社や販売店の方々、職位も会長や社長、役員などの幹部だけではなく、現場の営業職の方々、技術者など様々である。これらの方々と初めてお会いした際によく聞かれた質問は、「どうして楽器、特にピアノを研究しようと思ったの?」というものだった。というのも、私の名刺には「経済学研究科」と書かれていたからだ。これが音楽や芸術系の専攻であれば、誰もこのような質問を投げかけなかっただろう。私はいつもこの質問に遭遇すると、長い説明が必要なため、返答に窮していた。もし私が幼いころからピアノを習っていたり、趣味で長くピアノを続けていたりすれば、「ピアノが好きだから」という簡単な回答で済んだに違いない。おそらく業界関係の方々も、このような回答を待っていたのかもしれない。しかし、私はヤマハ音楽教室でフルートを学んだことはあるが、ピアノを専門的に学んだ経験は一度もなく、ピアノ好きとは言えなかった。
「これが私の研究したい歴史だ」
私がピアノに関心を持ったのは、純粋に経済学的な理由からである。大学院の博士課程に進学し経済学・経営学を研究していた私は、ミシン産業の歴史に注目し、特にその割賦販売(分割払い形式の販売)に関心があった。ミシン業界で割賦販売を初めて成功させたのはアメリカのシンガー社であった。彼らは19世紀後半に、当時裁縫工場で使われるような高額機械であったミシンを割賦販売の力によって一般家庭に売り込み、一躍世界的な企業に躍進していた。しかし、ミシンの製品市場はすでに縮小しており、「この産業を研究しても注目されないのではないか」との思いが芽生え、同じようなビジネスをしている産業を探したところ、楽器産業、特にピアノに行きついた。本書の第4章で詳しく述べたが、日本ではピアノ販売に割賦販売を用いただけではなく、同じくミシン産業で使われていた予約販売という積立式の割賦契約を用いてピアノ市場を切り開いた。さらにヤマハは多くの消費者にアクセスし易いヤマハ音楽教室というサービスを生み出し、市場を拡大していた。この事実を知った時に「これが私の研究したい歴史だ」と確信したのであった。
「ピアノなんて高額商品、簡単には売れない」
それから私は、予約販売を行っていた業界関係者に徹底的にインタビューした。その過程で出会ったのが、ヤマハの元役員の金原善德さんである。彼は、「ピアノなんて普通に考えたら次々と売れるようなものではない。冷蔵庫ならコンセントにプラグを差し込めば、買ったその日に製品性能の100%近くを使える。ピアノを買ってすぐに楽しめる人が市場にどのくらいいると思う?ほとんどいないよ。だから私は音楽教室というサービスが必要だと思ったんだ」と述べた。金原さんも私と同じくピアノは弾けず、彼はメーカーの営業マンとして、純粋にマーケティング戦略を練った結果が、世界に広がるヤマハ音楽教室になっていったと語ったのであった。その後、予約販売を推進してきた業界関係者からも次のようなコメントを聞いた。「ピアノなんて高額商品、簡単には売れない。お客さんに商品の良さ、楽しさを伝える必要があるし、たとえ買ってもらっても定期的な調律などのサービスをお願いしなければ〔受けてもらわなければ〕ならない」。このような製品は、経済学の分野では「合成財」と呼ばれている。経済学者の丸山雅祥先生は、製品それ自体に「付随サービス」が伴い、さらに両者が分離可能な製品を「合成財」と呼んでいる。ピアノでは、本体と音楽教育や各種サービスは分離可能である。例えば、ある消費者が河合楽器製のピアノを購入して、ヤマハ音楽教室で弾き方を習うことは可能なのである。これでは、音楽教育サービスに莫大な資金を投じているヤマハは、自身の製品売り上げに繋がらず、大きな商機を失うことになる。ピアノに限らず、合成財は常に製品とそれに伴うサービス(付随サービス)が切り離されないように、マーケティングや流通戦略を駆使して、分離を防止しなければならない。この仕組みと歴史を研究したのが本書である。
日本から世界的な楽器メーカーへ
さらに本書では、芸術的な営みに使われるはずのピアノが、工場で大量生産される過程についても描かれている。日本の楽器業界では、ヤマハが戦後、ピアノの大量生産に成功し、それを販売する強固な系列店網を構築していった。経営学の本にも書かれているように、大量生産と大量販売はセットであり、ヤマハはこの両者を上手くコントロールして、世界的な楽器メーカーに成長していった。ただ、ピアノには、「合成財」としての販売の難しさと同時に、普及率の上限が歴史的に25%前後と低く、市場がすぐに飽和状態になるという問題もあった。ヤマハは1950年代に大量生産体制を確立していくが、それと同時にいずれやってくる普及率の限界についても対策をとっていった。戦後のヤマハ躍進の旗振り役であった川上源一社長(当時)は、楽器斜陽論者として常に未来を見つめていた。欧米の状況を見ると、ピアノはいつか斜陽産業化する。だからこそ、ヤマハは新しい消費者を開拓するヤマハ音楽教室を運営し、日本市場を離れて世界に目を向ける海外展開、他の商品にもすそ野を広げる多角化戦略をとったのであった。
流通、マーケティング――ピアノの裏方の歴史
本書はこのようなトピックに注目し、鍵盤楽器メーカー、その流通を担ってきた業者、販売店などを流通・マーケティングの分野から検討する本である。「あれ?『ピアノの日本史』というタイトルなのに、ピアニストの話はないのか?」と疑問に思われるピアノ好きの方がいるかもしれないが、本書はいままで脚光を浴びてこなかった楽器業界関係者の葛藤の歴史を描いたものである。そのため、ピアノ好きの方は、普段使っているピアノの裏方の歴史を垣間見る本と思って読んでいただきたい。また、ピアノに関心のない方や、他産業を研究している学者の方は、戦後発展していった日本の自動車産業、家電産業などとの対比として見ていただきたい。冒頭の問いに戻るが、業界関係者から「どうして楽器、特にピアノを研究しようと思ったの?」と聞かれたときには、「割賦販売と予約販売に関心を持ったからです」と答えるようにした。このように答えると、「なんか面白い学生だな」と思っていただき、その後の情報提供を受けるなど、研究を進める中で役立った。読者の皆様も、今まで知らなかったピアノの経営史にこの本で触れていただき、「経済学・経営学の世界も面白い」と感じていただけたら著者としては大変嬉しく思う。
[書き手]田中智晃(東京経済大学経済学部准教授)
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