書評
『アメリカの鳥』(河出書房新社)
事象のかけらをちりばめた輝かしい物語
これは、教養というものがごくあたり前に必要で大切だった、時と場所と人々について書かれた、おもしろい、あかるい、小説である。全編に日ざしが降り注いでいるような、祝福された小説でもあると思う。一九六四年に十九歳の、一人の若者が主人公だ。物語はそのすこし前、彼がまだ「母親に恋している少年」だったころから始まるのだが、十九歳、という年齢がこの小説に、絶妙なフラジャイルさを与えていると思う。本人の自覚としては十全に大人である、でも子供のたっぷり残る年齢。彼の母親――「麗しきロザモンド」と息子に呼ばれたりする――がまた魅力的で、彼女が、ロッキー・ポートというアメリカの田舎町で、失われつつある古き良きもの――生活の様式、手をかけた料理、人々の意識――のために挑む戦いはきわめて印象的なのだが、それはそれとして、息子の名はピーター・リーヴァイという。
ピーターの人物造形のすばらしさが、この小説の美しい原動力である。この男の子、ともかくいいのだ。誠実であろうとするあまり、ほとんどありとあらゆることに逡巡(しゅんじゅん)する。そこから、ホテルのトイレや、浮浪者たちとの距離のとり方といった慎(つつ)ましくデリケートなエピソードが次々に生れる。「ピーター・リーヴァイの掟(おきて)」という個人的なルールを持っていたりもする。それは、「自分がやったと知られたくないことはやるな」で、この、いかにも若者らしい黄金律に、私は胸打たれた。ピーターというのはとても男の子らしい男の子であり、たとえおなじ性質を備えていても、女の子にはない生硬さとでもいうべきものが、彼にはある。本のなかに引用されているギリシャの哲学者の言葉、「性格とはその人の運命である」が、そのままこの小説の醍醐味(だいごみ)なのだ。
ロッキー・ポートでの彼と母の日々から始まる物語は、十九歳になった彼がフランスに留学し、さらにイタリアに旅行し、またフランスに戻り、という風に進むので、旅行記というか滞在記の趣も帯びている。ここには起承転結でくくれる類(たぐい)のストーリーはないのだが、だからこそ、小さなエピソードの集積が、びっくりするほど輝かしい物語となっているのだ。
ピーターの移動に伴って、一九六〇年代のアメリカ、フランス、イタリアが描かれるわけだけれど、それぞれの国のみずみずしさ、風味、個性が緻密(ちみつ)に織り込まれていて、それを読むだけでも心愉(たの)しい。また、ここにはたくさんの議論がでてくる。ベトナム戦争やアメリカ大統領選といった時事問題、美術、自然、人間、文学、歴史をめぐる考察、観光客についてのキッチュで率直な議論、などなど。登場人物たちは、みんな実によく物を考え、喋(しゃべ)り、意見を交換するのだ。英語、フランス語、イタリア語、ここには、人々の話す言葉も詰まっている(言葉は人格なのだ)。
主人公が海外で出会う友人、知人、列車で乗り合わせただけの人々や、大学の担当教授と交す会話、そこから見えてくる「人間」というもの。その滑稽(こっけい)さ、奇矯(ききょう)さ、偏屈さ、味わい深さをあぶりだすとき、マッカーシーの腕は冷徹なほどに冴(さ)える。そして、それらすべてのなかに、象徴的にくり返しでてくる「鳥」。
高く、低く、ひらひらと飛ぶ小さなちょうちょみたいな身軽さで、メアリー・マッカーシーは物語をあちこちにいわば脱線させながら、一つの時代、一つの場所の事象のかけらをちりばめて、大部の小説を書き上げてしまった。
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