解説
『悪魔の中世』(河出書房新社)
『悪魔の中世』は、澁澤龍彥の著作群のなかでも、まことに特異な一冊である。
著者自身による「アポロギア(弁明)」ともいうべき「はしがき」に明らかなように、本書の執筆と刊行との間には「ほぼ十七年」、実際の刊行がこの「はしがき」の翌年、一九七九年であるところからすれば、正確には十八年の時間が横たわっていることになる。これはまったく異例の事態である。
本書の骨子を美術雑誌『みづゑ』に連載していた一九六一年に、澁澤は『黒魔術の手帖』を刊行している。『毒薬の手帖』(一九六三年)、『秘密結社の手帖』(一九六六年)と続く「手帖」三部作の第一弾を出して、いよいよその相貌を際立たせ始めた年だ。すでにコクトーの『大胯びらき』(一九五四年)、サドの『悪徳の栄え』(一九五九年)の翻訳や、評論集『サド復活』(一九五九年)を公刊して、サド研究家、フランス文学者としての存在感を確かなものにしていた澁澤は、六〇年代に入って、「はしがき」の表現を使えば、「まだ日本では誰も手をつけていなかった領域」に乗り出そうとした。実際、いまでこそ魔術や悪魔や悪魔学といった言葉は人口に膾炙(かいしゃ)し、関連書が巷にあふれ、手垢にまみれたものにさえなっているけれども、当時そんなことが真面目な研究の対象になるとは、あるいはみずから研究の対象にしようとは、少なくともこの国ではほとんど誰も考えていなかったといってもいいだろう。『悪魔の中世』は、その意味で、『黒魔術の手帖』とともに、先陣をきる一冊になるはずだったのだ。
だが澁澤は、この時点での単行本化を控えた。なぜだろうか。もちろんそれは、彼自身いうように、「この若書きを全面的に書き直して、面目を一新させたかった」からであるに相違ない。とはいえ、「若書き」というなら、『黒魔術の手帖』も「若書き」であることには変わりがないのであり、『悪魔の中世』の「不備の点」「不満の個所」にことさら神経を尖らせるのも奇妙なことかもしれないのである。澁澤自身、単行本化に積極的になれず、私たち読者もまた本書になにか微妙に澁澤らしからぬものを感じるとすれば、それはなぜだろうか。
『悪魔の中世』が、『夢の宇宙誌』(美術出版社、一九六四年)などと比べて、なにか異質な印象を与えるとすれば、それは、ハーバート・リード風にいえば、「イデア」よりも「イコン」を採ることを選んだはずの彼が、「イコン」を扱いながらも、「歴史」に、「観念」に、「イデア」に、多少ともこだわらざるをえなかったからだと考えることができるだろう。こだわらざるをえなかったのは、「中世」というとびきりのイデオロギー社会を対象としていたからだというほかはない。
澁澤は、『黄金時代』に収められた「A・キルヒャーと遊戯機械の発明」というエッセイのなかで、アマチュアの語源がラテン語の「アマトール(愛慕する者)」にあることに説き及び、偉大なアマチュア精神の持主がとりもなおさず偉大なエロティック、汎性愛的人間にほかならぬことを主張している。この言葉は、直接的には「すべてを遊びの相のもとに眺める」マニエリスティックな精神の持主としてのキルヒャーその人に差し向けられているにしても、そのまま澁澤自身にあてはまることでもあった。そして稀代のアマトールとしての澁澤のエロスは、なによりもマニエリスムという海のなかで生動したように思う。キリスト教中世を相手にアマトールたることに徹するのにある種のぎこちなさのようなものを感じていたからこそ、澁澤は単行本化をためらったのではないか。
とはいえ、結局、長い時間を置いて、澁澤は本書を公刊した。「箱入り娘をようやく嫁にやる気になった父親の心境」と澁澤は書いているけれども、実際、『悪魔の中世』は、真黒な箱に入った真四角の本、黒ずくめの花嫁として世に送り出されたのである。考えてみれば、加筆があるとはいえ、本書は澁澤にとってはじめての美術史書、「誰も手をつけていなかった領域」、すなわちまさしく「魔的なもの」の領域を正面から採り上げた最初の「イコン」の書だといってもいいわけである。「もともと筆者の愛惜措くあたわざる作品」という言葉も、その意味で、文字どおりに受け取られるべきだろう。
(次ページに続く)
著者自身による「アポロギア(弁明)」ともいうべき「はしがき」に明らかなように、本書の執筆と刊行との間には「ほぼ十七年」、実際の刊行がこの「はしがき」の翌年、一九七九年であるところからすれば、正確には十八年の時間が横たわっていることになる。これはまったく異例の事態である。
本書の骨子を美術雑誌『みづゑ』に連載していた一九六一年に、澁澤は『黒魔術の手帖』を刊行している。『毒薬の手帖』(一九六三年)、『秘密結社の手帖』(一九六六年)と続く「手帖」三部作の第一弾を出して、いよいよその相貌を際立たせ始めた年だ。すでにコクトーの『大胯びらき』(一九五四年)、サドの『悪徳の栄え』(一九五九年)の翻訳や、評論集『サド復活』(一九五九年)を公刊して、サド研究家、フランス文学者としての存在感を確かなものにしていた澁澤は、六〇年代に入って、「はしがき」の表現を使えば、「まだ日本では誰も手をつけていなかった領域」に乗り出そうとした。実際、いまでこそ魔術や悪魔や悪魔学といった言葉は人口に膾炙(かいしゃ)し、関連書が巷にあふれ、手垢にまみれたものにさえなっているけれども、当時そんなことが真面目な研究の対象になるとは、あるいはみずから研究の対象にしようとは、少なくともこの国ではほとんど誰も考えていなかったといってもいいだろう。『悪魔の中世』は、その意味で、『黒魔術の手帖』とともに、先陣をきる一冊になるはずだったのだ。
だが澁澤は、この時点での単行本化を控えた。なぜだろうか。もちろんそれは、彼自身いうように、「この若書きを全面的に書き直して、面目を一新させたかった」からであるに相違ない。とはいえ、「若書き」というなら、『黒魔術の手帖』も「若書き」であることには変わりがないのであり、『悪魔の中世』の「不備の点」「不満の個所」にことさら神経を尖らせるのも奇妙なことかもしれないのである。澁澤自身、単行本化に積極的になれず、私たち読者もまた本書になにか微妙に澁澤らしからぬものを感じるとすれば、それはなぜだろうか。
『悪魔の中世』が、『夢の宇宙誌』(美術出版社、一九六四年)などと比べて、なにか異質な印象を与えるとすれば、それは、ハーバート・リード風にいえば、「イデア」よりも「イコン」を採ることを選んだはずの彼が、「イコン」を扱いながらも、「歴史」に、「観念」に、「イデア」に、多少ともこだわらざるをえなかったからだと考えることができるだろう。こだわらざるをえなかったのは、「中世」というとびきりのイデオロギー社会を対象としていたからだというほかはない。
澁澤は、『黄金時代』に収められた「A・キルヒャーと遊戯機械の発明」というエッセイのなかで、アマチュアの語源がラテン語の「アマトール(愛慕する者)」にあることに説き及び、偉大なアマチュア精神の持主がとりもなおさず偉大なエロティック、汎性愛的人間にほかならぬことを主張している。この言葉は、直接的には「すべてを遊びの相のもとに眺める」マニエリスティックな精神の持主としてのキルヒャーその人に差し向けられているにしても、そのまま澁澤自身にあてはまることでもあった。そして稀代のアマトールとしての澁澤のエロスは、なによりもマニエリスムという海のなかで生動したように思う。キリスト教中世を相手にアマトールたることに徹するのにある種のぎこちなさのようなものを感じていたからこそ、澁澤は単行本化をためらったのではないか。
とはいえ、結局、長い時間を置いて、澁澤は本書を公刊した。「箱入り娘をようやく嫁にやる気になった父親の心境」と澁澤は書いているけれども、実際、『悪魔の中世』は、真黒な箱に入った真四角の本、黒ずくめの花嫁として世に送り出されたのである。考えてみれば、加筆があるとはいえ、本書は澁澤にとってはじめての美術史書、「誰も手をつけていなかった領域」、すなわちまさしく「魔的なもの」の領域を正面から採り上げた最初の「イコン」の書だといってもいいわけである。「もともと筆者の愛惜措くあたわざる作品」という言葉も、その意味で、文字どおりに受け取られるべきだろう。
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