解説
『悪魔の中世』(河出書房新社)
さて、澁澤自身が「一種の研究ノート」とも称する本書の内容だが、その「研究」の内実が透けて見えるところがおもしろい。澁澤は、本書を基本的にいわば澁澤版『魔術的芸術』として構想したのだと思われる。そしてそれをユルギス・バルトルシャイティスの中世研究によって限定しようとしたのだ。もちろん澁澤はすすんで手の内を見せており、ヨハン・ホイジンガ、エミール・マール、アンリ・フォシヨン、そしてロラン・ヴィルヌーヴらの著作を押さえていることは明らかである。とはいえ、本書が、その「志向」において、ブルトンとバルトルシャイティスを縦横の軸として構成されていることは間違いない。そしてバルトルシャイティスは、『魔術的芸術』のなかでブルトンが言及している、ほとんど唯一の美術史家なのである。
『魔術的芸術』の内容は、単純といえば単純なもので、ブルトンのテーゼはこうである。芸術はその起源を魔術にもつ。芸術を生み出した魔術をみずから再生するところの芸術を「魔術的芸術」と呼ぶ。こうしたテーゼにもとづいて、ブルトンは原始美術からシュルレアリスムにいたる美術史をまさに再編成しようとしたわけだが、なかに「遠まわりの魔術、中世」と題する章がある。澁澤が本書のべースに置いたのはこの部分で、それは「悪魔の肖像学」の章に早々とブルトンの名前が引かれるところからも確かめられようが、彼はこれを自分なりに敷衍しようとしたものと推測される。
『魔術的芸術』は、すでに巖谷國士氏の監修で河出書房新社から邦訳が出ているから、いまでは読者はこの驚くべき大著をいつでも繙くことができるわけである。実は問題の「遠まわりの魔術、中世」の章の翻訳を担当したのはこの私で、翻訳で苦労した分、澁澤のテクストに特別の親しみのようなものをあらためて覚えたことを申し添えておきたい。
澁澤が使ったバルトルシャイティスの著作は、『幻想の中世――ゴシック美術における古代と異国趣味』(一九五五年)と『覚醒と驚異――幻想のゴシック』(一九六〇年)の二冊、とりわけ前者である。幸いこの『幻想の中世』も、一九八一年のフランス語新版にもとづいて「平凡社ライブラリー」から邦訳が出ているから、澁澤がこれをいかに縦横無尽に、つまり蝙蝠の翼の悪魔、二頭ゴルゴン、グリル(頭足人(グリロス))、悪の樹、誘惑図などの記述において利用しているか、読者は確かめることができよう。
いや、「利用」と書いたけれども、バルトルシャイティスというリトアニア出身の比類のない碩学の名前を私たちに教えてくれたのが、ほかならぬ澁澤龍彥なのであり、ブルトンとバルトルシャイティスを結びつけるような彼の「挑戦」がなければ、『幻想の中世』はもちろん、『アベラシオン』『アナモルフォーズ』『イシス探求』『鏡』からなる「バルトルシャイティス著作集」(国書刊行会)の邦訳刊行もありえなかったといってもいいだろう。そもそも「著作集」の責任編集には、澁澤があたるはずだったのだ。その意味では、澁澤はバルトルシャイティスを「利用」したというよりは、むしろ「告知」したのである。ついでにいえば、奇しき縁によって私は『鏡』の翻訳を担当する機会を得た。ブルトンとバルトルシャイティス、両方の翻訳に多少とも関わることができたわけである。私の仕事の少なくとも一端は、その淵源を本書のうちにもつことになるのかもしれない。
ところで、澁澤は本書に「中世」という時代的限定をつけながら、ジョルジュ・バタイユの『エロスの涙』やマルセル・ブリヨンの『幻想芸術』(一九六一年)などを引きつつ、ときとしてシュルレアリスム美術に連想を遊ばせることを忘れてはいない。「同じ恐怖芸術の時空を超えた共通性」をいいながら、サルヴァトル・ローザからサルバドール・ダリへ、さらには日本の「シダイダカ」へと説き及ぶ、そうした筆致の軽妙さに澁澤らしさといえば澁澤らしさを感じることもできよう。
さまざまな要素から織りなされたこの「研究ノート」は、いずれにせよ澁澤龍彥の原点を構成する。その後の澁澤の展開を萌芽的に含み、しかもそれをある程度予告するものと見てさしつかえあるまい。
澁澤の比較的知られざる一冊であろう本書が、こうして文庫に入った。澁澤龍彥という名前をことさらに意識せずとも、特異な中世美術書として、読者は本書を楽しむこともできるはずである。
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