書評
『蒋介石伝:逝きし時代の墓誌銘』(ミネルヴァ書房)
人間の実像と舞台の全景図を描く筆致
七〇〇頁(ページ)におよぶ巨編だが、長さをまったく感じさせない内容だ。史実を記述していながら、まるで小説のような展開になっている。細部の正確な再現と物語的な描写とが相まって、伝記の魅力が最大限に引き出されている。物語的な描写とはいっても、推測や想像にもとづく叙述や誇張は何一つない。反対に、緻密な史料調査が行われ、一次史料は徹底的に吟味されている。もっとも多く依拠したのは蒋介石日記だが、それを鵜呑(うの)みにしているわけではない。日記には誤記や記憶違いはあるし、本人の作為がないともかぎらない。真偽を見極めるには、公文書をはじめ、各種の記録、メディアの報道や関係者の証言などがふんだんに参照され、個々の歴史的事実について、詳細な確認作業が行われた。
蒋介石が生まれたのは一八八七年。一九七五年に亡くなるまでの八十八年のあいだ、中国の国内においては内戦や動乱が相次いでおり、国際的にも戦争や大事件は絶えなかった。歴史の語り方は立ち位置の違いによって千差万別だが、一人の政治家の足跡を丁寧にたどっていくと、過去の真実の一端がくっきりと見えてきた。
伝記の王道として、蒋介石を叙述の中心に据えるのは当たり前の手法である。他方、著者は同時代の人物群像の描出にも力を入れている。しかも、主役を引き立てるわき役としてではない。彼らの経歴、気質、主張や政治決断にいたる過程を明らかにすることによって、歴史舞台の全景図を復元しようとした。それは意図された方法として一貫しており、副題にはそのような意味が込められている。評伝としては注目すべき試みだ。
その好例として汪精衛(おうせいえい)、毛沢東やF・ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相についての記述が挙げられるが、権力の中心から離れたところに位置する人たちにも光が当てられている。
もっとも印象に残ったのは戦略家としての、蒋介石の天才ぶりである。彼が北伐軍を率いて戦っていたときに目にしたのは、まさに国破れて山河ありの惨状であった。内戦に敗れ、台湾に逃げるまでのあいだ、国内において足を引っ張る政敵や、政権の転覆をはかる共産党の攻撃をかわしながら、外国からの武力侵攻に対処しなければならない。
複雑極まりない政治状況のなかで、蒋介石は周到な分析にもとづいて冷静な状況判断に徹した。彼はかねてソ連と日本の開戦を予見し、ドイツはいずれソ連と一戦を交えるだろうとみている。冬に入ると、ソ連での作戦が困難になることから、六月中にドイツが侵攻を始めることを、独ソ開戦の二カ月前に的確に言い当てたと。そして、日本の軍部の対英米開戦を見越して、耐えに耐えてアメリカの参戦をひたすら待ち続けていた。
むろん一人の人間として蒋介石は完璧無欠ではない。それどころか、政治家として残酷無情の一面もあった。しかし、孫文の後を継いだのが蒋介石でなかったら、中国は亡国の一途をたどったであろう。中国の近代史のみならず、東アジアないし世界の歴史も大きく塗り替えられたのかもしれない。歴史は情緒の望遠鏡で眺めてはいけない。価値中立性が保ち続けられたからこそ、一代の英傑の実像に迫ることができた。
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