「東側」と呼ばれた人々の闘い
東欧という言葉はかつてメディアでよく目にしたが、もとよりその定義は自明ではない。地理的な概念というより、地政学の文脈で用いられることが多い。歴史のなかでもその含意はつねに流動的で、近代においてはほとんどの場合、物質文明や政治体制と関連付けて語られている。しかし、そのような便宜上の分類に対し、受け止め方は一様ではない。とくに、その地域に住む人たちにとって、悲惨な過去を想起させる記号になる。欧州の小さい民族が背負う苦難の歴史を縦糸に、入り組んだ情感を横糸として織りなしたテキストは三つの方向において読者の想像力を搔(か)き立てるものになる。
まず、心に響いてくるのは全体主義の抑圧に対する抵抗と告発である。共産党統治のもとで異議申し立てがいかに命がけの試みか、「文学と小民族」の叙法を見れば明らかである。「プラハの春」の最中とはいえ、控えめな体制批判でも精緻な迷彩を施さなければ、その声を公共空間に届けることはできない。
中欧の抵抗運動は、小説、詩、演劇、映画などが中心になっている。そうした文化活動が許されたのは、もちろん共産党政権の寛容によるものではない。イデオロギーの正面衝突を避け、民族と文化に訴えるのは、統治者の弾圧に口実を与えないためである。
だが、本書の意味はそれに止まらない。むしろ表題作のほうがチェコ民族の苦悩の深さを示している。この評論はミラン・クンデラがフランスに亡命し、ベルリンの壁が崩壊する前に書かれている。この執筆の時期が注目に値する。
ミラン・クンデラが問題にしたのは、当時、ソビエトの衛星国となった中欧諸国はどのように文化の自己定義をすべきかということである。東西冷戦の時代、一括して「東欧」と称されていたが、文化の歴史に誇りを持つ彼らにとって屈辱的な地域名である。
「誘拐された西欧」というレトリックには、「中欧」という言葉に託された情念の深さを示唆している。「中欧」とはもともと文化的には西欧の一部で、たまたま空間的に中央ヨーロッパに位置しているに過ぎない。プラハは一時期、神聖ローマ帝国の首都になり、カレル大学に代表されるように、その町はかつてヨーロッパの学問や芸術の中心であった。
クンデラはとくに一九一八年から一九三八年までの時代に強い郷愁を抱いている。一九一八年十月、チェコスロバキア共和国の独立が宣言され、二年後に三権分立、人権と法の前の平等を基本とする憲法が制定された。西欧の民主主義が取り入れられただけでなく、近代西欧文明に仲間入りしたという自負をチェコの人々が持っている。
ところが、一九三八年、当事者が不在のまま、ミュンヘン協定が押し付けられ、国家がたちまちのうちに蒸発してしまった。
第二次世界大戦後にソビエトに誘拐されたが、西欧文化の捨て子として、里帰りへの思いは一日たりとも諦めたことはない。たんに体制の選択だけではない、その輝かしい文明の歴史に対する誇りがあったからだ。「誘拐された」という隠喩には自らの運命を把握できない中欧諸民族の悲哀が込められている。