書評
『北愁』(講談社)
凜として哀しいまでに潔い、女性作家の誕生
幸田文は私にとってもっとも尊敬する女流の一人、いつかその人生や文学と格闘したいと思ってきた。エッセイや自伝より、フィクションの意匠を纏(まと)いながらもその奥に顕(あらわ)れる作者の方が、より確かな実像を伝える。主人公の感性や反応そして認識において、この長編の主人公はまさに幸田文そのものなのだ。主人公のあそぎは母を亡くし、文筆家の父と継母に育てられた。少女から大人になり人生の悲哀に直面するまでの半生が描かれている。
あそぎは男に生まれれば良かったと思われるほど気性が強く、自分に正直でごまかしがない。継母の意に疑問を覚えながらも、善意で受け止めて憎まない賢さがある。
あそぎの人生には、いつも北の海で暮らすいとこの順治が影絵のように存在している。「北愁」というタイトルは順治との関わりを象徴していると思われ、その意味では恋愛小説としても読める。最後は順治の病死で終わるが、二人の関わりは恋愛と呼ぶにはあまりにお互いが突き放されているし、それがまたとくべつの哀切を生み出してもいる。
この小説が俄然(がぜん)面白くなるのは、あそぎが結婚した相手の、婚前の女性問題をふとしたことから知ってしまってからだ。彼女はさらに真実を追究するべきかどうかを迷ったあげく、こう考えるのだ。
……自分は雲の下の暗さをなぜそのままにしておけない性分なのか……暗ければものは見えない。見えればいやな事だらけだから雲がかくしているのかも知れないものを、その雲を剥がしてなぜ面倒なものを知ろうとするのか……見えなければ不安なのである。見ていやな気持がするのと、見えない不安と、どっちへ傾く性分かといえばあそぎは、見えない不安にいたたまらない組へはいる。いやなものでもはっきり承知したほうがいいと思う組なのだ……
あそぎの性格描写に見えて、これは近代女性の自我と苦悩、さらには小説家の業までを伝えている。自我に伴う重荷に、耐え得る精神の剛力がここに在る。まさに幸田文という作家誕生の瞬間だ。
この長編を読むにあたり、やはり女性を主人公にした小説『流れる』やエッセイ集『崩れ』にも目を通した。
文は人なりを、幸田文ほど示した人はいない。
真っ直(す)ぐに立ち真正面から当たるしか出来ない作者の、凜(りん)として少し哀(かな)しい潔さが、そのまま日本の美――崩れ消えていくものへのいとおしさ――となり、決して情緒的ではない、けれど心に染み込む文章として綴(つづ)られるのだ。
あそぎが不如意にも生理になり、そこへ順治が来て、身動きできないあそぎを腹痛だと思う。すぐ医者をと順治に言われ、あそぎの顔は赤くほてる。
……おかしいのである、順治の勘違いが。順治が本気で慌てていればいるだけ、まぬけなのである。こらえられない笑いが噛(か)み殺せなかったのである。あっはは、あっはは、と無遠慮にこみあげてくるのを、それでも一しょう懸命に遠慮して、あそぎはしかし、やはりおしまいには「あっはは!」と笑った……
動揺がそのまま文体をつくっている。
『崩れ』の中で大谷(おおや)崩(くずれ)を訪れ谷水を見た作者は「崩壊を頭にいただいた谷水」「崩れから生まれた流れ」だと断ずるが、幸田文の文章もまた、崩れと流れの自在さによって生成されている。不安定であることを身の覚悟として受けとめ、しかしそれに負けない強さが美しい。
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