書評
『東京―1934~1993』(新潮社)
十五年ほど前だったと思うが、カメラマンの荒木経惟(のぶよし)さんの事務所にうかがったときのことである。四方の壁はたくさんの写真で埋め尽くされていたが、私はその中で大判の一枚の写真に目がくぎづけになった。毛生え薬やわきがの薬や衛生サックのポスターや看板を並べ立てた薬局を正面からバーンと撮った写真である。誰が撮った写真なのかと聞いたら、荒木さんは「なっ、いいだろ、いいだろ」と喜んだ。それで私は桑原甲子雄の名前を知った。まったく遅ればせなことだったが、『東京昭和十一年』(晶文社)、『夢の町』(晶文社)を買って、すっかリファンの気持になった。
さて。最近、その薬局の写真が表紙になっている写真集『東京1934~1993』(新潮社)が出版された。冒頭は、一九三六年二月二十七日、つまり二・二六事件の翌日、大雪の皇居周辺の写真である。そして最後は(たぶん)八〇年代のある日の多摩川べりの写真である。
薬局の写真からしてそうだが、桑原甲子雄という人は、看板やポスターなど街角に氾濫するさまざまな文字に妙な感興をかきたてられる人のようだ。
「コロッケパン 三箇十銭、防弾パン 十箇十銭」「親切本位 御泊料一圓より」「しもやけにただれに妙」……といった文字が、人間と同じくらい、一つの生きもののように強い印象を与える。時代を記録するといったジャーナリスト的興味に駆られて撮ったとは思えない。もっとわけのわからない、説明しがたいもの――もしかすると人間の強欲にたいする好悪半ばする気持――にせかされて撮ったのだと思う。
もし一九三〇年代の東京にタイムトラベルができたら、私も一番に街角の文字に注目するだろうが、桑原甲子雄は当時その中に生きていて、こういう写真を撮った。そこが面白く、独特なところだ。生まれながらにして「俗とは懐かしきものなり」といった視線の持ち主のような気がする。
本書のはしがきで桑原甲子雄は戦前の作品についてこう説明している。
フラヌール=歩く人という概念は私にはよくわからないが、この写真集を見ていると、桑原甲子雄はまるで透明人間か風のような気持になって街を歩いていた人なんだなと思う。自分の存在を極力消してシャッターを押した人なんだなと思う。なぜなら、写真に写っている人たちの大半はカメラを意識していないし、こちらを見ていないからだ。人や状況にかかわりあいを持たずに撮っている。そこに私はこのカメラマンの小心というより羞恥の深さを感じる。
当人が意図しなくても、こうして六十年間の東京の写真が並ぶと、おのずから時代記録的な意味が出てくる。誰の写真でもそうだが、やっぱり一九三〇年代から五〇年代の写真が面白い。時代が今に近づくに従って、人間が建物に負けている感じがして、私は淋しい気持になってしまうのだ。昔の写真の中の人物は、一人一人の背後に面白い短編小説があるように感じられる。戦前の東京の写真を見ると、高村智恵子が「東京には空がない」と言ったのが嘘のようだ。ちゃんと大きな空も大きな土の地面もあるじゃないか。戦前にあって戦後にパッタリと姿を消したもの――それは下駄と、路地で遊ぶ子どもの姿だ、ということも、この写真集を見るとよくわかる。
【この書評が収録されている書籍】
さて。最近、その薬局の写真が表紙になっている写真集『東京1934~1993』(新潮社)が出版された。冒頭は、一九三六年二月二十七日、つまり二・二六事件の翌日、大雪の皇居周辺の写真である。そして最後は(たぶん)八〇年代のある日の多摩川べりの写真である。
薬局の写真からしてそうだが、桑原甲子雄という人は、看板やポスターなど街角に氾濫するさまざまな文字に妙な感興をかきたてられる人のようだ。
「コロッケパン 三箇十銭、防弾パン 十箇十銭」「親切本位 御泊料一圓より」「しもやけにただれに妙」……といった文字が、人間と同じくらい、一つの生きもののように強い印象を与える。時代を記録するといったジャーナリスト的興味に駆られて撮ったとは思えない。もっとわけのわからない、説明しがたいもの――もしかすると人間の強欲にたいする好悪半ばする気持――にせかされて撮ったのだと思う。
もし一九三〇年代の東京にタイムトラベルができたら、私も一番に街角の文字に注目するだろうが、桑原甲子雄は当時その中に生きていて、こういう写真を撮った。そこが面白く、独特なところだ。生まれながらにして「俗とは懐かしきものなり」といった視線の持ち主のような気がする。
本書のはしがきで桑原甲子雄は戦前の作品についてこう説明している。
私の写真する背景には文学でいうと、川端康成の『浅草紅団』、高見順の『如何なる星の下に』が時代の雰囲気としてあり、永井荷風の作品群ももちろん東京の情緒を誘発してくれた。のちにはヴァルター・ベンヤミンの都市のフラヌール(flâneur=遊歩者)、歩く人の思想からも示唆をうけた。
フラヌール=歩く人という概念は私にはよくわからないが、この写真集を見ていると、桑原甲子雄はまるで透明人間か風のような気持になって街を歩いていた人なんだなと思う。自分の存在を極力消してシャッターを押した人なんだなと思う。なぜなら、写真に写っている人たちの大半はカメラを意識していないし、こちらを見ていないからだ。人や状況にかかわりあいを持たずに撮っている。そこに私はこのカメラマンの小心というより羞恥の深さを感じる。
当人が意図しなくても、こうして六十年間の東京の写真が並ぶと、おのずから時代記録的な意味が出てくる。誰の写真でもそうだが、やっぱり一九三〇年代から五〇年代の写真が面白い。時代が今に近づくに従って、人間が建物に負けている感じがして、私は淋しい気持になってしまうのだ。昔の写真の中の人物は、一人一人の背後に面白い短編小説があるように感じられる。戦前の東京の写真を見ると、高村智恵子が「東京には空がない」と言ったのが嘘のようだ。ちゃんと大きな空も大きな土の地面もあるじゃないか。戦前にあって戦後にパッタリと姿を消したもの――それは下駄と、路地で遊ぶ子どもの姿だ、ということも、この写真集を見るとよくわかる。
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