書評
『幕末欧州見聞録―尾蝿欧行漫録』(新人物往来社)
ファースト・コンタクトというのは、いかなる時代のものであれ、興味深いものである。そして、それが本書のように幕末の日本人が西洋文明に初めて遭遇したときの記録であれば、十九世紀のフランス社会を研究フィールドにしている日本人としては食指が動かないはずはない。
文久元年(一八六一年)、つまり明治維新の成立する六年前、条約交渉と西欧事情視察のためにヨーロッパに派遣された遣欧使節については、随行員に福沢諭吉や福地桜痴などの大物がいたこともあり、これまでにもさまざまな研究が行われてきたが、副使・松平石見守康直の従者として随行した市川渡(清流)が残した『尾蠅欧行漫録』についてはあまり触れられることがなかった。それはおそらく、市川渡が、下級武士という身分だったせいもあり、見聞したヨーロッパ文明についての感想や将来のヴィジョンを書きとめることよりも、目撃したあらゆる事象を、思想を加味することなく細大漏らさず書き記すことを選んだためであると思われる。つまり、『尾蠅欧行漫録』には思想性が欠けているのだ。
だがその純粋な記録性は、当時のヨーロッパ人がまったく意識せずに過ごしていた日常の細部を知るための貴重な資料を提供してくれるという点で私のようなフランス社会史に興味を持つ者にとっては、実にありがたいものとなっている。
たとえば、一八五五年の万博を機に開業したパリの高級ホテル、ルーヴル・ホテルにはフランスで初めて近代的な入浴設備が備えられたという事実だけはわかっていたのだが、それが具体的にどんなものだったかについては不明だった。ところが、本書には、「建物の上に浴室がある。およそ縦三間、横一間ばかりである。壁の下には幅三尺弱、長さ六尺ばかりのブリキの楕円(だえん)形の盤がある。なかには広い西洋布を敷いている。壁間にはカモの首の形の蛇口が二つある。ひとつは熱湯をふき出し、ひとつは冷水を流し出す。……このような浴室が全部で二十室ばかりある」と記述されているので、各部屋にバス・ルームがあったのではなく、上のほうの階にまとめておかれていたこと、初期にはバスルームとトイレはセットにはなっていなかったこと、そして、浴槽はブリキ製の案外粗末なものだが、自動給湯装置はすでに存在していたことなどの細部を知ることができる。だが、浴槽の中に敷いてある「広い西洋布」というのはいまひとつ理解に苦しむ。バス・タオルなのかそれとも滑りどめマットなのか。また、トイレは、市川の記述によれば、すでにどのホテルでも水洗式になっていたようだが、これは市川らが外国人用の高級ホテルだけに宿泊していたためではないか。
しかし、こうしたファースト・コンタクトもので面白いのは、なんといっても目撃者がどんなものにびっくりしているか、ということだろう。たとえば、汽車に最初に乗ったときに「千里の外を稲妻のように速く馳る。ああ、目も驚き、心もドキドキする」と驚いているのは予測可能だが、役所にかかげてあった写真を見たときの反応は意外である。「まったく真にせまっている」と感じいるのは当然としても「いずれも生きている人間のようで、その筆さばきは絶妙である」としているのは、写真という言葉を使いながら、それがどのような原理によるものかわかっていなかったらしくて面白い。だが、その五日のちには、「写真師がきて、御三使および属官数人の写真をとった」とあるから、これで写真というものの本質を理解したのだろう。また、ロンドンの万国博覧会では透視図法の西洋絵画に感心しているが「西洋人がえがいたものは、ただ真に迫るだけで、この形似のほかに気高さとか神髄を伝えるものがない。ああ、惜しむべきことかな」と批判しているのは注目に値する。このほか、パリの洗濯代の高さに驚きあきれているが、これは、日本のような水に恵まれた文明に属する者にとっては、考えられない暴利のように思われたらしい。
だが、総じて言えば、チョンマゲを結い大小を差していたにしては驚くべき適応力であり、その旺盛(おうせい)な好奇心は現代の我々をも驚かす。あるいは、外来の事物や習慣を貪欲(どんよく)に学習して吸収する日本人の性質は既にこの時点で形成されていたのかもしれない。文章もアーネスト・サトウの英訳を参考に現代語に訳されているので、いたって読みやすい。
【この書評が収録されている書籍】
文久元年(一八六一年)、つまり明治維新の成立する六年前、条約交渉と西欧事情視察のためにヨーロッパに派遣された遣欧使節については、随行員に福沢諭吉や福地桜痴などの大物がいたこともあり、これまでにもさまざまな研究が行われてきたが、副使・松平石見守康直の従者として随行した市川渡(清流)が残した『尾蠅欧行漫録』についてはあまり触れられることがなかった。それはおそらく、市川渡が、下級武士という身分だったせいもあり、見聞したヨーロッパ文明についての感想や将来のヴィジョンを書きとめることよりも、目撃したあらゆる事象を、思想を加味することなく細大漏らさず書き記すことを選んだためであると思われる。つまり、『尾蠅欧行漫録』には思想性が欠けているのだ。
だがその純粋な記録性は、当時のヨーロッパ人がまったく意識せずに過ごしていた日常の細部を知るための貴重な資料を提供してくれるという点で私のようなフランス社会史に興味を持つ者にとっては、実にありがたいものとなっている。
たとえば、一八五五年の万博を機に開業したパリの高級ホテル、ルーヴル・ホテルにはフランスで初めて近代的な入浴設備が備えられたという事実だけはわかっていたのだが、それが具体的にどんなものだったかについては不明だった。ところが、本書には、「建物の上に浴室がある。およそ縦三間、横一間ばかりである。壁の下には幅三尺弱、長さ六尺ばかりのブリキの楕円(だえん)形の盤がある。なかには広い西洋布を敷いている。壁間にはカモの首の形の蛇口が二つある。ひとつは熱湯をふき出し、ひとつは冷水を流し出す。……このような浴室が全部で二十室ばかりある」と記述されているので、各部屋にバス・ルームがあったのではなく、上のほうの階にまとめておかれていたこと、初期にはバスルームとトイレはセットにはなっていなかったこと、そして、浴槽はブリキ製の案外粗末なものだが、自動給湯装置はすでに存在していたことなどの細部を知ることができる。だが、浴槽の中に敷いてある「広い西洋布」というのはいまひとつ理解に苦しむ。バス・タオルなのかそれとも滑りどめマットなのか。また、トイレは、市川の記述によれば、すでにどのホテルでも水洗式になっていたようだが、これは市川らが外国人用の高級ホテルだけに宿泊していたためではないか。
しかし、こうしたファースト・コンタクトもので面白いのは、なんといっても目撃者がどんなものにびっくりしているか、ということだろう。たとえば、汽車に最初に乗ったときに「千里の外を稲妻のように速く馳る。ああ、目も驚き、心もドキドキする」と驚いているのは予測可能だが、役所にかかげてあった写真を見たときの反応は意外である。「まったく真にせまっている」と感じいるのは当然としても「いずれも生きている人間のようで、その筆さばきは絶妙である」としているのは、写真という言葉を使いながら、それがどのような原理によるものかわかっていなかったらしくて面白い。だが、その五日のちには、「写真師がきて、御三使および属官数人の写真をとった」とあるから、これで写真というものの本質を理解したのだろう。また、ロンドンの万国博覧会では透視図法の西洋絵画に感心しているが「西洋人がえがいたものは、ただ真に迫るだけで、この形似のほかに気高さとか神髄を伝えるものがない。ああ、惜しむべきことかな」と批判しているのは注目に値する。このほか、パリの洗濯代の高さに驚きあきれているが、これは、日本のような水に恵まれた文明に属する者にとっては、考えられない暴利のように思われたらしい。
だが、総じて言えば、チョンマゲを結い大小を差していたにしては驚くべき適応力であり、その旺盛(おうせい)な好奇心は現代の我々をも驚かす。あるいは、外来の事物や習慣を貪欲(どんよく)に学習して吸収する日本人の性質は既にこの時点で形成されていたのかもしれない。文章もアーネスト・サトウの英訳を参考に現代語に訳されているので、いたって読みやすい。
【この書評が収録されている書籍】
中央公論 1992年11月1日
雑誌『中央公論』は、日本で最も歴史のある雑誌です。創刊は1887年(明治20年)。『中央公論』の前身『反省会雑誌』を京都西本願寺普通教校で創刊したのが始まりです。以来、総合誌としてあらゆる分野にわたり優れた記事を提供し、その時代におけるオピニオン・ジャーナリズムを形成する主導的役割を果たしてきました。
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