書評
『眺めたり触ったり』(早川書房)
晴れた日には、えの木ていで本を読もう
『眺めたり触ったり』(文・青山南、絵・阿部真理子、早川書房)というタイトルからはどんな内容なのか想像できないが、これは「読書」のいろんな側面、その魅力について書かれた素敵な本なのだった。
たとえば、本といえばまず中身というのは間違いで、どこで読むか、どうやって読むか、どんな気持ちで読むかで印象が違ってくることは誰だって知っている。読書=本+本を読む時の状況なのだ。
ジャネット・ウィンターソンの果物小説『さくらんぼの性は』(白水社)に、部屋の掃除をしていた主人公のひとりが、ベッドの下に子どものころに読んだ本をどっさり見つけ、箱のなかにどんどんぶちこんでかたづけるというシーンがある。どうってことないシーンなのだが、次の一節にはひっかかった。
「中に一冊だけ、よく覚えている本があった。あまりはっきり覚えているので、イメージとしてではなく、舌の上に味覚として蘇ってくる――それぐらい、それは鮮明な記憶だった。その本を読んでいたとき、外は雨だった。雨が降っていて、クリスマスのすぐ後だった」(岸木佐知子訳)
この主人公が「はっきり覚えている」のは、本の中身なのか、それとも、外は雨だったという、本を読んでいたときの状況なのか、はて、どっちなんだろう。
本の中身と、本を読んでいた、あるいは、本と出会った状況と、どっちのほうがおもいだしやすいか、といったら、だんぜん状況のほうである。
こういうのって、ぼくだけかな。
いや、ぼくだって同じだよ――といいたくなる読者も多いだろう。そして、目を瞑り、どんな時どんな本を読んでいたっけと思い出そうとするだろう。
あれは二十代の終わりで、横浜に住んでいて肉体労働をしていた頃、朝(六時)目を覚ましてあんまり天気がいいと、ぼくは仕事に行きたくなくなり、そのまま、一年中薄暗く陽の射さない部屋に敷きっぱなしの布団の中でまどろむのだった。ごそごそ起き出すのは九時。読みかけの本を一冊持ってアパート(家賃一万円)を出る。そして、ゆっくりと「港の見える丘公園」へ向かう長い坂を歩いてゆく。行き先は大佛次郎記念館の喫茶「霧笛」か、元町公園前、フェリスの生徒御用達の「えの木てい」か、女子商業横の「エレーヌ」。店のドアを押し開けて入ると、最初の客であるぼくはモーニングセットを注文する。座る場所はいつも決まっていて、「霧笛」なら入ってすぐ左の席、横浜港が大きく広がって見えるところ、「えの木てい」なら緑いっぱいの庭が見える窓際、「エレーヌ」ならいちばん奥の港が見える窓際で、ぼくは持ってきた本を広げる。晴れた午前中の陽の光にはなにか特別なものが含まれているような気がいつもしていた。その陽の光が木漏れ日となって本の上に落ち、風につられて細かく震える様子をぼくはぼんやり見ている。たとえば、それは白いシンプルな装幀のグラシンがついたままの吉田健一の『詩について』(青土社)で、ぼくは数行読むたびに、視線を頁から窓へ移す。吉田健一の言葉がものすごい勢いで頭の中を刺激してゆくので、読み続けられないのだ。未来はまったくわからず、その日暮らしで、ただぼんやりと作家になれたらいいなと思っていた、本を読むことがぼくにとってなにより最高の贅沢だった頃のことである。
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