書評
『発見術としての学問――モンテーニュ、デカルト、パスカル』(岩波書店)
「人生のビタミン」古典へのいざない
「発見術としての学問」という書名に接して、この本には何が書かれ、何が論じられているのか、と想像をかきたてられた。副題に「モンテーニュ、デカルト、パスカル」とあるから、この三人のモラリストたちの研究を通して、何かを発見しようということなのであろうか、そんなことを思いつつ、読み進めていったところ、何と、「読んだことのない本について考える」というエッセイがあるではないか。
人間は一本の葦(あし)にすぎない。自然のうちでもっともか弱いもの、しかしそれは考える葦だ。
この名言で知られるパスカルの『パンセ』が著者の研究対象であり、著者はパスカルをはじめとするモラリストたちの著作にわけいり、彼らが展開する論理と、それを支えていた精神のありようを探りあて、古典のもつ魅力を語っている。
古典を読むことなど、この忙しい世界においてはとても暇などなく、好事家や教養人の趣味にすぎないと、思う人は多い。まして古典をきちんと読むとなれば、特別な学識が必要とされるので、とても自由に読みこなすことなどできない、と思う人もいよう。
そうした人に向かって、著者は、古典は人生にとってのビタミンのようなものであり、人間の健やかで品位ある生き方を保つ上で、微量でも重要な作用を及ぼし、欠乏すれば健康と品位を損なうような精神の栄養素である、と説く。
人間の生活をヨーロッパ流に「活動的生活」と「観想的生活」に区別すれば、古典を読むこととは後者の領域に属し、実用や利害を離れ、純粋に事柄をそれ自体として眺め、真相を究明する知的態度に沿うものである、とも説く。
第一章の「モラリストの知恵」では、こうした立場を表明し、人間について深く洗練された考察を行なったモラリストの著作の意義を指摘する。続いてそれに関(かか)わる小品を載せた後、第三章の「良識はどうして公平に分配されているのか」から、「パスカルにとって<パンセ>とは何であったか」「ひとは今を生きることができるか」までの章において、『パンセ』を中心とした研究を載せている。
いずれも平明な論題であり、文章もまた難解ではないのだが、論理の運びに緩みがなく、内容も極めて濃い。そのなかで評者が特に興味を抱いたのは、「パスカルにとって<パンセ>とは何であったか」という章である。
実はこの著作がパスカルの遺作であって、パスカル自身が出版したものではなかったことを今まで気にもとめていなかった。その遺作からパスカルが本当は何を考えていたのか、その思想や精神を解き明かそうとする試みは、まさに書名の「発見術としての学問」にふさわしいものとなっている。
この暑い夏、本書を読んで一服の清涼剤となったばかりか、書棚の奥に長年眠っている、埃(ほこり)をかぶった古典を取り出すこととなった。
評者がそれを読んだときには、まだフランス語を履修する学生は多かったが、今はフランス文学を研究しようという学生はきわめて減っているという。そうした実情を踏まえて記したのが、第二章の「文献学者と知識人」と題する日本におけるフランス文学研究の紹介である。
そこでの「日本のフランス文学研究が日本と世界において果たす文化的役割の意義と効力を信じ続けているのです」という締めの言葉は、フランス文学のみならず広く人文学の研究者にとっても共有するところであろう。
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