読書日記
武田百合子『富士日記』(中央公論新社)、佐野洋子『私の息子はサルだった』(新潮社)、伊藤比呂美『切腹考』(文藝春秋)
追いかけて、見えぬ背中
こういうエッセイは、絶対に私には書けない。…といつも思うのは、武田百合子、佐野洋子、伊藤比呂美のお三方。どれだけ追いかけても、その背中が見えることは決してないのであろう、と。最初に出会ったのは<1>武田百合子『富士日記』(上)(中)(下)(中公文庫・各1,008円)。夫・泰淳と、富士の山荘へと通う日々の日記であり、行動や食べた物などが詳細に記されています。その中にさし挟まれるのが、取りつくろうことのない百合子の視線と言葉。他人の生活が丹念に記されているだけなのに、いつまでも読んでいたくなるのです。
佐野洋子さんについては、エッセイを読んだのが先か『100万回生きたねこ』を読んだのが先か、記憶が定かではありません。ニヤニヤ笑いながらその著書を読むわけですが、読後にいつも残るのは、何かの本質に触れた感覚でした。
2010年に亡くなられた後に発見された作品が<2>『私の息子はサルだった』(新潮社・1,296円)。久しぶりに佐野作品を読み、私はやはり笑って、少し泣いたのです。
<3>『切腹考』(文芸春秋・1,836円)は伊藤比呂美さんの最新作。かつて切腹を見た経験を持つ、著者。切腹と森鴎外、夫の死と熊本地震。…著者の周囲をとりまくものが、この本の中でねばつきながらつながります。血やら尿やらといった有機的な臭いが漂ってくるかのようで、自分が生身の人間であることを思い起こした私。
そういえば武田、佐野、伊藤に共通するものは、この「生身」感なのです。文章に無駄な衣服を着せないので、こちらに体温をもって迫ってくる、というか。
「切腹考」において私が「あっ」と思ったのは、著者が書くのはエッセイではない、というところ。著者の肩書は詩人だけれど、「所謂(いわゆる)行分けの現代詩ならもうずいぶん書かない」。しかし、書いている全てのものが詩である、と。
今まで読んできた伊藤作品もエッセイではなかったのか!と、今さら気づいた私。そうしてみると、武田作品も佐野作品もまた、私が「エッセイだ」と思い込んでいただけで、カテゴライズできない他の何かだったのかも。
追いかけても背中が見えないのは、当たり前だった。だってそれは全く別の道だったのだから。…と納得した私。そういえばこの手の文章を書くことができる人は、最近いない。
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