書評
『切腹考』(文藝春秋)
鴎外の世界から生と死を問う
切腹好きの伊藤比呂美さんが、切腹に導かれて森鴎外ワンダーランドに分け入ったら、自分が鴎外ワールドの登場人物になってしまった。伊藤さんの存在自体が、鴎外の言葉と混ざっていった。それがこの驚異的な文学作品で、伊藤さんの言葉でいえば詩だ。伊藤さんは、鴎外作品に登場する切腹には、「痛いの苦しいのとは一言も書いてない」と気づく。ただ黙って切って死ぬ。その感覚は何なのか。昔の衆道とゲイは違うのかと友人に尋ねると、ゲイというセクシュアル・アイデンティティが誕生したのは近代であり、それ以前の江戸期には習慣、遊びとして同性と性行為をしていた、つまりアイデンティティとは結びつかなかった、と返事が来る。伊藤さんは思い当たる。
「何を痛いと思い、何を痛くないと思うかも、アイデンティティだ。/そんなら、生きる死ぬるもアイデンティティだ。/そうだ、アイデンティティがあるから、死ぬるは怖い、斬られれば痛い。/生きる死ぬるの、実体など、ほんとはどこにもなかった」
しかし、それがたとえ幻想であっても、近代以降に生きる私たちは、誰もアイデンティティなしでは生きられない。伊藤さんは、この後、日本の自宅がある熊本の大地震と、自分の住むカリフォルニアで夫の死とを、同時進行で体験することになる。
その中で繰り返し書かれるのは、外から他人を決めつける目線との衝突だ。日本なら世間の目として、アメリカなら強すぎる自己主張として。このとき伊藤さんは、鴎外文学の登場人物と重なる。鴎外が執拗(しつよう)に書き続けたという「知的で我の強い」女に。外側から一方的につぶしてこようとする力に、抗(あらが)う女に。
鴎外と同様、伊藤さんも、「おのれが生きる、生きて窒息しているこの世界」を自分のリズムの言葉で書くことで、折り合いをつける。
最後の悲鳴に共感した私は、伊藤文学の住人だ。
朝日新聞 2017年3月26日
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