書評
『水辺のうた』(邑書林)
水性の文学
幸田露伴は、娘文が掃除するバケッの水の扱い方を見て、「水は恐ろしいものだから、根性のぬるいやつには水は使えない」と厳しく教えた。『五重塔』『幻談』『雪たたき』、露伴の小説にはサァッ、しとしと、ひたひた、どうどうと水音が通奏低音のように響いている。情景だけではなく、『一國の首都』や『水の東京』『河水』等数多くのエッセイでは、明治の近代化で川の自然が侵され、水が汚されていくさまを、怒りをもって指摘した。汚れたる江戸川愛(を)しと日々に越ゆ川は自(みづか)ら汚れしにあらず
本書『水辺のうた』(道浦母都子編著、邑書林)に採られた高野公彦の一首にも露伴と同様の、水へ愛着と、それを汚した人間への憤りがある。
大判の清々しい本だ。編著者の道浦母都子(もとこ)は、私の大好きな歌人である。六〇年代末の大学闘争以来、時代から逃げることなく、ひたむきに、時には痛々しいほど正直に生きてきた。その彼女が、水にかかわる歌三十六首を選ぶ。それに、作者たちの横顔にも触れた小エッセイを付した。短歌を「水性の文学」としてとらえ、「水にかかわりながら歌うとき、五七五七七という器は抒情の光をきらめかせつつ、浮遊する」という道浦さんは、みごとな水先案内人として、「水辺のうた」の世界へと私たち読む者を導いてくれる。
しずもれる湖あり、大河あり、町中の川あり、通り雨、湯あみ、プールの水……そして海。
マッチ擦(す)るつかのま海に霧探し
身捨つるほどの祖国はありや
故寺山修司の絶唱である。懐かしい。この歌一首めざして、私は青函連絡船に乗りに行ったことがある。青森の海は眼前に深々と広がっていた。波止場で船員たちとストーブでししゃもをあぶって食べた。道浦さんにとっても忘れられない歌だという。その一ヵ月前、連合赤軍の浅間山荘事件が起こり、「ね、来てね、きっとね」の女友達の誘いで、事件の衝撃に嘔吐をこらえてたどりついた嬬恋村の山小屋。浅間山荘と目と鼻の先にある、そこの柱に、この歌が刻まれていたのであった(『吐魯番(とるふあん)の絹』)。
「いのちよりいのち産(う)み継(つ)ぎ海原(うなばら)に水惑星の搏動(はくどう)をきく」という栗木京子など、本書に散りばめられている引用を含めた百四十余首を読むと、日本人がなんとも多彩なイメージで水との関わりをもってきたことを、私たちはあらためて思い知らされる。
月が牽(ひ)く海は満ち潮(しお)体重を
忘れしやうに抱きあひたり
松平盟子
なんと性愛を高らかに官能的に歌い上げたことか。
ゆく水の飛沫(しぶ)き渦巻き裂けて鳴る一本の川、お前を抱(いだ)く
佐佐木幸綱
応えるような、強く魅力的な男の歌がある。読んでいても気持ちが高まってくる。こうした相聞歌のなかに和泉式部の、
涙川(なみだがわ)おなじ身よりは流るれど
恋をば消(け)たぬ物にぞありける
がはさまっていると、どうして、千年前の歌とは思えない。人間の感性は万古不易だ。編者の力量もあって本書は、小野小町から俵万智まで、短歌にうたわれた水の情景が一望のもとに見渡せる豊かな本になった。
それなのに謙虚な編者の歌は一首も採られていない。それは見識だが、私は、道浦母都子こそ「水の詩人」とよぶべきだろうと思う。
神田川流れ流れていまはもう
カルチェラタンを恋うことも無き
自らを見失うことなく生きん
振り返るとき湖が輝く(『無援の抒情』)
いま日本では、水が視えない。海や川は都市から遠く隔てられた。川は暗渠(あんきょ)化され、上に高速道路が架けられた。海は埋められ、高層ビルが建つ。親水公園や噴水など人工の「記号としての水」しか目にうつらない。蛇口から出る水はまずく、子どもたちは競ってスポーツドリンクを買う……。
露伴は川を汚すのは「自然への甘え」であり、「時代の自惚」であるといった。もはや甘えつづけることはできぬ地点に私たちはいる。しかし、まず水をよく視ること、水への想像力を回復することからしか、私たちは水の危機に立ち向かえないのではないか。本書は、その感性を磨くための〈大切な贈物〉のように思う。
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