書評
『界』(文藝春秋)
人間の複雑怪奇、浮かび上がる
例えば、「市民」という政治学の用語がある。男だろうが女だろうが市民は市民であり、そこに違いがあってはならないはずだ。しかし現実はより複雑である。この連作短編集は、男女の間に横たわる深淵を、絶妙な筆致で浮かび上がらせる。日本各地の謎めいた地名とともに語られる、齢五十を過ぎた男の漂泊歴。佐渡の宿根木に近い床屋では日本海の波濤を聴きながら理容師の女の剃刀に死の影を見いだし、愛知県の知立(ちりゅう)では夫から逃れてきた人妻と一晩をともにする。女からすれば身勝手な男のように映るだろう。だが、この榊(さかき)と名乗る男にいつしか肩入れしてしまう自分がいることもまた否定しようがない。
政治学者の丸山眞男にならっていえば、この種の小説には狭い日常的現実にとじこもる「実感信仰」がある。けれども人間というものの複雑怪奇さを文学から学ばずして、どうして「市民」という普遍的な理念に到達できようか。そんな読後感が残った。
朝日新聞 2015年6月14日
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