書評
『私はなぜアジアの映画を見つづけるか』(平凡社)
アジアの映画について一度にこれほど多くの情報に接したのは初めてだ。作品数の多さのみならず、内容の多様さ、文化的分布の広さには驚くばかりである。韓国、中国、台湾や香港などの近隣の映画だけではない、北のモンゴルから、南アジアのインド、スリランカ、東南アジアのベトナム、タイ、ミャンマー、インドネシア、フィリピン、さらに西のアフガニスタン、ウズベキスタン、中東のシリア、イラン、イラク、イスラエルにいたるまで、さまざまな作品が紹介されている。いずれもそれまでにまったく知らない秀作ばかりだ。
アジア映画を通して見えてきたことと、世間の「常識」とは必ずしも一致しない。メディアで報道されたミャンマーは軍事政権支配下の独裁国家というイメージが強いが、意外にもプロパガンダ映画はないらしい。欧米の影響を受けていないからか、むしろ穏やかで、心優しくて、品のいい作品が多い。
ハリウッドの眼差しに慣れた者にとって、イランの戦争映画は天地をひっくり返したような大発見であろう。何しろ、イラン・イラク戦争を題材とした作品には、主人公の英雄的な戦いぶりも、自国軍隊の勇敢さも描かれていない。ただ、ひたすら戦争の悲惨さだけが映像を通して延々と強調されている。敵を憎むのではなく、もっぱら己れの犠牲について語る。あるいは己れの犠牲を語りながらそれが敵への憎しみになることを避ける。その点においては、アメリカ映画だけでなく、多くの国の戦争題材の作品と鮮明な対照をなしている。
芸術作品にしては、映画は日常生活に密着している部分が多い。その分、制作された国の政治や文化背景も多少なりとも投影されている。同じ犯罪映画でも香港の『インファナル・アフェア』はほかのおとり捜査を題材とする映画と大きく違う。主人公は潜入先の相手と義理人情で結ばれ、二重の裏切りの苦悩に陥る。その表情から、香港が抱えている政治的矛盾、およびそれに不安と悩みを抱えている香港人の心が巧みに読み解かれている。
長年、国際交流の第一線で活躍しているだけに、異文化とつきあう姿勢には見習うべきものが多い。今日、グローバル化が進んでいる反面、ナショナリズムの暗流は以前にも増して情念の深層で渦巻いている。しかし、映画はしばしばそのような観念の枠、ひいては言語の枠を越えている。先入観を排して、寛容な心でアジア映画を見るのは、彼らの声に耳を傾けることであり、映像を通して異文化の人々の心を知り、対話と共感の可能性を探ることである。必ずしも水準が高いとはいえない作品についても、なるべくよいところを見いだそうする。アジアの映画人のあいだで佐藤忠男がたいへん尊敬されているという話をどこかで聞いたことがある。相手に敬意を払ったからこそ、相手からも尊敬されたのであろう。
映像を見る目の確かさ、批評の鋭さはあいかわらず健在だ。物語やせりふや画面の細部がよく吟味されているだけでなく、映像の背後に隠されている人々の気持ちまで的確に見通している。絵画も文学も優れた作品は必ずしも「大衆」に理解されないことがある。しかし、映画は違う。芸術性がどのように高くても、その言語文化を持つ庶民がわからなければ、よい作品とはいえない。そのことについて著者は誰よりもよく心得ている。大衆性の表象に目配りしつつ、芸術性の着地点をきちんと見極めているところはさすがだ。
読み終わって、すぐにでも映画館に行きたくなった。
【この書評が収録されている書籍】
アジア映画を通して見えてきたことと、世間の「常識」とは必ずしも一致しない。メディアで報道されたミャンマーは軍事政権支配下の独裁国家というイメージが強いが、意外にもプロパガンダ映画はないらしい。欧米の影響を受けていないからか、むしろ穏やかで、心優しくて、品のいい作品が多い。
ハリウッドの眼差しに慣れた者にとって、イランの戦争映画は天地をひっくり返したような大発見であろう。何しろ、イラン・イラク戦争を題材とした作品には、主人公の英雄的な戦いぶりも、自国軍隊の勇敢さも描かれていない。ただ、ひたすら戦争の悲惨さだけが映像を通して延々と強調されている。敵を憎むのではなく、もっぱら己れの犠牲について語る。あるいは己れの犠牲を語りながらそれが敵への憎しみになることを避ける。その点においては、アメリカ映画だけでなく、多くの国の戦争題材の作品と鮮明な対照をなしている。
芸術作品にしては、映画は日常生活に密着している部分が多い。その分、制作された国の政治や文化背景も多少なりとも投影されている。同じ犯罪映画でも香港の『インファナル・アフェア』はほかのおとり捜査を題材とする映画と大きく違う。主人公は潜入先の相手と義理人情で結ばれ、二重の裏切りの苦悩に陥る。その表情から、香港が抱えている政治的矛盾、およびそれに不安と悩みを抱えている香港人の心が巧みに読み解かれている。
長年、国際交流の第一線で活躍しているだけに、異文化とつきあう姿勢には見習うべきものが多い。今日、グローバル化が進んでいる反面、ナショナリズムの暗流は以前にも増して情念の深層で渦巻いている。しかし、映画はしばしばそのような観念の枠、ひいては言語の枠を越えている。先入観を排して、寛容な心でアジア映画を見るのは、彼らの声に耳を傾けることであり、映像を通して異文化の人々の心を知り、対話と共感の可能性を探ることである。必ずしも水準が高いとはいえない作品についても、なるべくよいところを見いだそうする。アジアの映画人のあいだで佐藤忠男がたいへん尊敬されているという話をどこかで聞いたことがある。相手に敬意を払ったからこそ、相手からも尊敬されたのであろう。
映像を見る目の確かさ、批評の鋭さはあいかわらず健在だ。物語やせりふや画面の細部がよく吟味されているだけでなく、映像の背後に隠されている人々の気持ちまで的確に見通している。絵画も文学も優れた作品は必ずしも「大衆」に理解されないことがある。しかし、映画は違う。芸術性がどのように高くても、その言語文化を持つ庶民がわからなければ、よい作品とはいえない。そのことについて著者は誰よりもよく心得ている。大衆性の表象に目配りしつつ、芸術性の着地点をきちんと見極めているところはさすがだ。
読み終わって、すぐにでも映画館に行きたくなった。
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