書評
『ワンちゃん』(文藝春秋)
外国人作家が日本語で書いた小説としてではなく、日本語を母語とする作家たちが書いた作品と同じ基準で読んでみた。
主人公の木村紅(くれない)はいわゆる中国人花嫁の一人で、もとの名は王学勤という。ワンちゃんとは姑がつけた愛称だ。日本に来る前に、中国の地方都市で衣料品販売を手がけ、経済成長の波に乗って、事業が大成功した。しかし結婚生活の破綻をきっかけに、四国の田舎町に嫁いできた。
地方都市の工場で作業員をしている新しい旦那は無口で、ワンちゃんは寝たきりの姑を除いて、会話の相手もいない。単調な生活から抜けだし、また経済的に自立するために、中国人花嫁を斡旋する事業を興した。お見合いツアーを催しているうちに、さまざまな人生ドラマを目の当たりにし、自分もいつの間にかその悲喜劇のなかに巻き込まれていく。
全体の構成がよく出来ていて、細部にもほとんど破綻はない。この種の小説は中国人花嫁の運命だけを描いても、おそらく面白くないであろう。日中間のお見合い結婚事情や、田舎町の結婚できない男たちに焦点を合わせても、物語が平板になりやすい。しかし日本と中国の社会変化を背景に、そうしたことを一つの作品の中に交差させると、思わぬ効果をもたらした。
人物描写にも工夫が凝らされている。結婚紹介をめぐる物語だから、小説に出てくる日本人のほとんどは男性で、女性はだいたい中国人だ。ただ、性別、職業あるいは国籍にかかわらず、彼らには共通する点が一つある。逆境のなかで生きてきたことだ、男たちは中国の農村に嫁を探しに行くくらいだから、日本では結婚の見込みはまずない。宇野は前歯が抜けるほど老けており、山内は腫れぼったい赤ら顔をしている。遠藤は病弱で、山村は中年にして女房に逃げられた。職業も田舎町の八百屋か、過疎地で農業を営むか、あるいは零細企業の従業員といった低収入の人々である。学歴や容貌にも、決して恵まれていない男たちばかりだ。
女たちの状況も大して変わらない。呉菊花は男に棄てられ、孫領弟は女の子しか産めないという理由で離縁された。李芳芳は夫を必ず死なせる星のもとで生まれ、故郷では忌避された女だ。つまり、男も女もみな負け組なのだ。
だが、文化を超え、国境を越えて見ると、勝ち負けの物差しが相対化される。その辺りの反転が、文化衝突の現場で起きたどたばた喜劇を通して面白く描かれている。負け組の生き方を矮小化するのでもなく、いたずらに美化するのでもない。凡庸さも醜さも生のありうる一局面として軽妙な筆致で語られている。
場面の転換も鮮やかだ。物語はワンちゃんが率いるお見合いツアーから始まり、次々に登場してくる女性の運命が、ワンちゃんの過去と交互に描かれている。中国社会の変化、日本の地方都市の疲弊、競争原理という神話の裏側、日中文化の違いなどが、思い出の断片、ツアー中の出来事、興味深いエピソードのなかに巧みに織り込まれている。
非母語で小説を書く場合、日常の言葉と文学的な表現の違いを正確に把握するのは難しい。言語感覚のずれは独創的な表現を生み出すこともあるし、文章の品格を落とすこともある。越境する作家が背負う宿命だが、だからといって、まわりの雑音をいちいち気にする必要はない。大切なのは、胸に響く物語を書けるかどうかだ。本書に収録されている「老処女」については留保したいが、表題作は一応その目標には達した。
【この書評が収録されている書籍】
主人公の木村紅(くれない)はいわゆる中国人花嫁の一人で、もとの名は王学勤という。ワンちゃんとは姑がつけた愛称だ。日本に来る前に、中国の地方都市で衣料品販売を手がけ、経済成長の波に乗って、事業が大成功した。しかし結婚生活の破綻をきっかけに、四国の田舎町に嫁いできた。
地方都市の工場で作業員をしている新しい旦那は無口で、ワンちゃんは寝たきりの姑を除いて、会話の相手もいない。単調な生活から抜けだし、また経済的に自立するために、中国人花嫁を斡旋する事業を興した。お見合いツアーを催しているうちに、さまざまな人生ドラマを目の当たりにし、自分もいつの間にかその悲喜劇のなかに巻き込まれていく。
全体の構成がよく出来ていて、細部にもほとんど破綻はない。この種の小説は中国人花嫁の運命だけを描いても、おそらく面白くないであろう。日中間のお見合い結婚事情や、田舎町の結婚できない男たちに焦点を合わせても、物語が平板になりやすい。しかし日本と中国の社会変化を背景に、そうしたことを一つの作品の中に交差させると、思わぬ効果をもたらした。
人物描写にも工夫が凝らされている。結婚紹介をめぐる物語だから、小説に出てくる日本人のほとんどは男性で、女性はだいたい中国人だ。ただ、性別、職業あるいは国籍にかかわらず、彼らには共通する点が一つある。逆境のなかで生きてきたことだ、男たちは中国の農村に嫁を探しに行くくらいだから、日本では結婚の見込みはまずない。宇野は前歯が抜けるほど老けており、山内は腫れぼったい赤ら顔をしている。遠藤は病弱で、山村は中年にして女房に逃げられた。職業も田舎町の八百屋か、過疎地で農業を営むか、あるいは零細企業の従業員といった低収入の人々である。学歴や容貌にも、決して恵まれていない男たちばかりだ。
女たちの状況も大して変わらない。呉菊花は男に棄てられ、孫領弟は女の子しか産めないという理由で離縁された。李芳芳は夫を必ず死なせる星のもとで生まれ、故郷では忌避された女だ。つまり、男も女もみな負け組なのだ。
だが、文化を超え、国境を越えて見ると、勝ち負けの物差しが相対化される。その辺りの反転が、文化衝突の現場で起きたどたばた喜劇を通して面白く描かれている。負け組の生き方を矮小化するのでもなく、いたずらに美化するのでもない。凡庸さも醜さも生のありうる一局面として軽妙な筆致で語られている。
場面の転換も鮮やかだ。物語はワンちゃんが率いるお見合いツアーから始まり、次々に登場してくる女性の運命が、ワンちゃんの過去と交互に描かれている。中国社会の変化、日本の地方都市の疲弊、競争原理という神話の裏側、日中文化の違いなどが、思い出の断片、ツアー中の出来事、興味深いエピソードのなかに巧みに織り込まれている。
非母語で小説を書く場合、日常の言葉と文学的な表現の違いを正確に把握するのは難しい。言語感覚のずれは独創的な表現を生み出すこともあるし、文章の品格を落とすこともある。越境する作家が背負う宿命だが、だからといって、まわりの雑音をいちいち気にする必要はない。大切なのは、胸に響く物語を書けるかどうかだ。本書に収録されている「老処女」については留保したいが、表題作は一応その目標には達した。
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