書評
『最初の悪い男』(新潮社)
役割こそが恋であり愛であり人生
語り手のシェリルは妄想癖のある四十三歳の女性。元は女性向けの護身術教室、現在はフィットネスDVDの販売をするNPO団体で働き、六十五歳のフィリップに恋をしている。このシェリルには絆で結ばれた子がいて、彼は生まれたばかりの赤ん坊であらわれることもあり、よちよち歩きの幼児であらわれることもある。でも、シェリルには彼が運命の子かどうか、目が合えばすぐにわかる。しかしながら彼はいつもほかの女の赤ん坊として生まれてばかりいる。ヒステリー球の発作に苦しんではいるが、彼女はほとんど完璧なまでに快適なひとり暮らしをたのしんでもいる。その完璧な住まいに、自堕落で不潔な、破壊魔のような上司の娘クリーが同居することになる。ここからシェリルの暮らしはじわじわと壊されていくのだが、小説もじょじょに転調をくりかえし、シェリルはいったいどこへいってしまうのか、いや、読み手の私はどこに連れていかれるのか、はらはらし、唖然(あぜん)とし、むずむずと帰りたくなる。自分の見慣れた場所に。そのくらい、ちょっとよくわからない世界に連れていかれる。実際、私は何度も読みやめようとした。
そのよくわからない世界で、シェリルは、役割を演じることで、他者との関係を築き、居場所を得ようとする。それは珍妙な役割だし、演技は滑稽(こっけい)で理解を超えてはいる。でも、だんだん、その役割こそが恋であり愛であり、大げさに言えば人生なのではないかとも、思えてくるのである。私たちは、本来は言葉にならず手中におさめられない恋や愛を、そして人生を、みずからの側に固定するために、恋人や配偶者や、母や父や子や、友や師や生徒や、何かしらの役割を、奇妙さにも滑稽さにも気づかずに、必死に演じているのではないか。私たちはそうすることでしか、他者と関係を築けないのではないか。信じられる、信じたい役割を、真剣に演じ続けることでしか。
シェリルと、まだ若い同居人クリーの役割は、クリーの妊娠、出産によって変わり続ける。役割を変えながら二人の女は日々を送り、人生をつなげていく。しかしあるとき、決定的な変化が起きる。彼女たちはそれぞれの役割を、捨てざるを得なくなる。予想もしなかった、願ったこともなかった人生が、それぞれに割り振られる。
事態は、だれにとっても、シェリルにとっては超弩級(ちょうどきゅう)に悪いほうへと進んでいくのにもかかわらず、次第に、今まで書き割りだった光景がその書き割りを破り捨てていきいきと広がり、曇りも霞(かす)みもなくなって、隅々まで燦然(さんぜん)と輝きはじめるような印象を、読みながら私は持った。このまっさらな、まごうことなき世界で、シェリルはふたたび自分の役割を選び取る。与えられて、押しつけられて、しかたなく引き受けるのではなく、自分自身で見つけ出し、みずからそれを選び取る。役割をそっくりのみこんで、彼女自身になる。その瞬間を、私は息をのむようにして見つめてしまう。
小説の前半で読むのをやめて見慣れた世界に戻りたくなった私は、まさに、完璧なほど快適な部屋に暮らすシェリルの姿でもあった。シェリルが見慣れた場所から出ていったから、私も最後、未知の世界に連れ出してもらえた。読後の自分の感情の動きに、未(いま)だぴったりの言葉が見つけられないでいる。共感なんかではまったくない、感動ともちょっと違う……、ぴったりの言葉を持たないほど、私にとってあたらしい感情だ。
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