書評
『ブレイクショットの軌跡』(早川書房)
予測不可能な時代と、そこに差す光
ブレイクショットとは、ビリヤードのゲームをはじめる際の、最初のショットのことだという。本書では、四輪駆動車(SUV)の名称として登場する。プロローグには、自動車メーカーの期間工として働く青年が登場する。約三年間、寮生活をしながら車の製造、組み立て、検査などを行うのだが、その最終日、ブレイクショットの仕上げ段階で、彼はある場面を目撃する。まさにこれが、これからはじまる物語の第一打、とも思わせる。
物語に登場するのは中央アフリカ共和国で兵士として働く少年をはじめとして、タワーマンションに暮らすヘッジファンド会社の副社長や、不動産会社の営業マン、善良さが自身の取り柄であると言う自動車修理工、プロのサッカー選手を目指す少年とその友だちなど、年齢も背景も、暮らす場所も異なる人々である。彼らの真ん中にあるのが、ブレイクショットという車だ。ある者は車を手放し、ある者は社用車として用い、ある者は中古で手に入れる。
異なる場所で生きる彼らはそれぞれ、自身の力ではどうにもならないことによって、あるとき、運命の転換を迎えざるを得なくなる。
タワーマンションに住む若き副社長は、大学時代の同期生である社長の在宅起訴により、タワマンを引っ越さざるを得なくなり、多大な借金を抱える。それにともなってサッカー選手を夢見る彼の息子は、サッカーを続けることがむずかしくなる。
善良さが取り柄の修理工は事故に遭い、彼の家族は予想もしなかった苦難の日々を迎えることになる。サッカー選手を夢見る少年の友人である修理工の息子もまた、将来設計を手放さざるを得なくなり、そうしてYouTubeで圧倒的人気を誇る経済塾の講師と出会う。
そんなふうに、まさにはじけた球がほかの球を次々と動かすように、運命の転換はあちこちに派生していく。彼らが所有するSUVのブレイクショットが、まるで不幸を呼び寄せる不吉な何かみたいに思えてくるが、もちろん車自体に意思はなく、ただ、運命に翻弄(ほんろう)される人々のかたわらにひっそりとある。
物語から、私たちの生きる今という時代が鮮烈に立ち上がってくる。はっきりと目には見えず、手では触れられないものに取り巻かれ、何が起きているのか、そのただなかにいながらもよくわからない。何によって分断されているのかわからないまま分断され、相手の実存もわからないままソーシャルメディアを介して他者を知る。パンデミックの前にはたしかに構築されかけていたはずのものは、失われ、あるいは変形し、もともと何を構築しかけていたのかも、みんな忘れはじめている。
たとえば物語に登場するヘッジファンド会社の仕組みを私はよく理解できないし、投資用集合住宅を必死になって売る不動産会社は何を目指すのかよくわからない。YouTubeで人気の経済塾講師が何を教えているのかもやっぱりきちんと理解していないし、そこに集まる人たちの目的もわからない。
小説は、すべての職業の細部にいたるまで詳細に、説得力を持って描いているので、もちろん頭では理解できる。すべての人々の行動原理は「今より少しだけ幸福になること」、なのかもしれないのだが、そのシンプルな思いと、複雑になっていく日々の、相関性がわからない。しかしながら、そのわからなさのなかに私自身も生きているという実感がある。今、この現実世界でしあわせになろうとするには、たしかにこんなにも複雑な手順が必要となるのかもしれない。
一度放たれた球は、個々人の運命を超えて、世界的な問題へも波及していく。これほど曖昧模糊(もこ)とした現実でありながら、登場人物が何も考えずに起こしたアクションによって、実際にだれかが社会的に抹殺されたり、人命がかかった現実問題が引き起こされたりする。SNSの向こうにいるのが実在の人間かわからないのに、その人の運命を、まったく無関係の他者が、なんの意図も悪意もなく左右できてしまう。それもまた、私の生きる今の現実そのままだと思い知らされて、つめたいおそろしさを感じる。
しかしながら、物語には、この不透明な世界のなかで、まっすぐ自分の目の前だけを見つめる人たちも登場する。彼らの姿はまるで濃霧のなかにさす一筋の光のようだ。その光は、物語が進むにつれてゆっくりと広がり、不透明な世界をクリアにしていく。
そしてこの物語は、多様な角度から「再生」ということを見据えてもいる。再生とははたして何であるのか、考えながら物語は進んでいく。だれかが手放した車がふたたび生き返るように、私たちもまた、かつて目指していた場所をもう一度目指すことができるし、失ったものをちがうかたちで取り戻すことができるはずだと思えてくる。
あまりに急速な、急速すぎて予測不可能な時代の流れに棹(さお)さすのではなく、希望という錨(いかり)を下ろすような作品である。
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