書評
『おぱらばん』(青土社)
極上の葡萄酒のような味わい
ラーメン・ライスというものがある。私はどうもこの食べ方が気にくわなかった。ライスを添えたら、ラーメンがライスのおかずになってしまうではないかと。ところが、あるときラーメンにライスがついてきたので、ライスも食べてみた。これが案外いけたのだ。ラーメンを食べた口でライスを食べるとお米の味がわかり、次にラーメンをすすると、お米のさっぱり感がよりラーメンをおいしくする。本書は、いってみれば、最も良質の文章のラーメン・ライスのようなものである。すなわち、パリ郊外に住む移民との交流を散文詩のような透明な文体で描き出したエッセイ部分がラーメンだとすれば、その間に挿入される文学作品の記憶がライスに当たる。ラーメン純正主義者からすると、それだけで十分に賞味にあたいするエッセイに、あえてライス(小説の梗概や文学論)を入れる必要はないじゃないかということになるのだが、著者はそれを承知でこのラーメン・ライスの方法を貫いてみせる。なぜか?「私にはそんなぐあいに、書物の中身と実生活の敷居がとつぜん消えうせて相互に浸透し、紙の上で生起した出来事と平板な日常がすっと入れ替わることがしばしばある」からだ。
一例をあげよう。よく晴れた冬の日の午後、パリの南郊を散策していた「私」は石造りの一戸建てが肩寄せ合うようにたっている一角を発見する。
私が目を留めた家の入口には、そこが理髪店であることを示すくすんだ鋳鉄の看板が掲げられ、ドアのうえの門灯の両わきに、向き合って飛んでいる陶製の白い燕がふたつ飾られていた。
子供のころに床屋嫌いだった「私」は二羽の燕の飾りに惹きよせられて、床屋に入る。床屋が苦手なので手早く済ませてほしいというと、主人は「床屋に入ってきて開口いちばん床屋が嫌いだなんてのたもうた客ははじめてだ」と笑う。この会話がきっかけとなり「私」は床屋に通う。
ここまでがラーメンだ。もっと食べたいと思うと、今度はライスが出る。シャトー・レイノーという作家のエッセイが紹介されるのだ。シャトー・レイノーは陶製の燕の飾りのあった祖父の郊外の一戸建ての思い出を語り、その郊外には「なにかしら久遠の、神聖なもの」があったと回想する。これを読んだ「私」はにわかにあの床屋のことが気になり出掛けてみると床屋は跡形もなく、ショベルカーが土煙をあげていた。「私」は夕方敷地に忍びこむ。
そうしてライターの明かりを頼りに、私を魅了してやまなかった白いセラミックの燕を瓦礫のなかに探ってみたのだが、どこに飛んでいってしまったのか、小さな破片すら見つけることはできなかった。
しかし、ラーメンだけを味わいたいという読者もいるだろう。そうした読者には、表題になった「おぱらばん」というエッセイがお勧めだ。「私」は、学生寮でみなが「先生」と呼ぶ中年の中国人男性と知り合う。その先生は、以前、東京へ行ったことがあるといおうとして熟慮のあげく「オパラヴァン」という単語をひねり出す。それは現在のフランス語では使われない古語だった。「私」は先生がその単語を発音したときの音に魅せられる。
ポップコーンでもはじけるようにひとつひとつばらけたその音の羅列は、いささか日本風に《おぱらばん》と、じつにキュートに、遠い国の魔法使いの、とっておきの呪文みたいに聞こえるのだった。
その数日後、テレビの連想ゲームを見ていた「私」は、チームリーダーの《おぱらばん》というヒントに回答者が間髪をいれずに「中国人!」と叫ぶのを聞いて、フランス人も中国人たちの口癖に気づいていることを知ると同時に、アジアの同胞を馬鹿にした出演者に嫌な感じを持つ。
「私」は話を伏せたまま、出会った先生にフランス語をどこでならったのかと尋ねる。すると、先生は『中佛簡易単語対照辞典』という小冊子を広げた。そこには「以前」に対応する単語として「AUPARAVANT」が記されていただけだった。
私はあなたがこの単語を口にされるときの、その《音》がとても好きです。理由はわからないけれど、ほっとします、と伝えた。気持ちが通じたのか、先生は顔ぜんたいが崩れるほどの笑顔を浮かべて私の肩をぽんぽんとたたき、メルシ、と言い残して部屋に戻っていった。
その後、パリ十三区の中国人街を歩いていた「私」が先生を見かけて声をかけると先生は「私」をピンポンに誘う。
ウイ、おぱらばん、ピンポン、やって、いました、と先生は言う。私はいくぶん興奮気味に応えた。じつは、私も、やって、いました、ずっとむかし、そう、おばらばんに!
先生はすばらしく強かった。
冷えたコンクリートにこんこんと弾むボールの乾いた音がこびりついて、いつまでもいつまでも鳴りやまなかった。
極上の葡萄酒のような味わいとはこういうエッセイについていうのだろう。ラーメン・ライスというたとえは、こと内容に関する限り、あきらかに不当である。
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