書評
『哲学探究』(講談社)
言語は生きざまそのもの
二○世紀哲学の天才ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタイン(L・W)の『哲学探究』の新訳だ。二○○九年改訂の英独対訳「原著第四版」を元に翻訳し直した。訳者は鬼界彰夫氏。L・W読解の第一人者だ。今回の新機軸は、切れ目なく続く本文を「章・節」に区分し内部構造を示したこと。執筆時期の異なる三つのブロックも踏まえた。まさに決定版だ。
L・Wの『哲学探究』は、どこがどうすごいのか。その説明は超絶困難だ。でもやってみよう。
哲学難度A。デカルト。この世界はほぼすべて疑える。でも疑う自分の存在は疑えない。それを基礎に、自分の感覚や意識や世界を再構成しよう。「明晰判明」に議論を組み立てればよい。
哲学難度B。L・W前期の『論理哲学論考』。デカルト流に哲学するには言語が必要だ。でも言語は正しく世界を意味できるのか。それを保証するため「言語と世界は対応する」を公理に措(お)こう。これが規準で、それに合わない日常の言語は不純で邪魔である。
哲学難度ウルトラC。『哲学探究』。「世界と対応」する言語は正確でいいか。科学はそう思いたがる。でも哲学が真似したらだめだ。人びとが、言語を実際どう用いるか見なさい。用法は実にさまざまだ。どれも規則に従うが、でも規則は明示はされない。「わかる」ならいいのだ。人間の社会はこんな多様な言語の用法(=言語ゲーム)の渦巻きだ。前期の『論理哲学論考』を投げ捨て、世界の真の姿を言語ゲームとして明らかにせよ。それが本当の哲学だ。
「言語ゲーム」はウィトゲンシュタインが創出したアイデアだ。『哲学探究』の中心主題である。でも読んでみるとこの本は、特有のわかりにくさがある。断片がだらだら続き、全体の構成が見えない。自問自答しているうちに、次のテーマに移ってしまう。ある絵がウサギにみえたりアヒルにみえたりする/自分の痛みは疑えない/数列の続きが「わかる」/仮にライオンが話しても我々にはわからないだろう/…。こんな焦点を結びにくい考察が続くテキストから、何を汲み取ればいいのか?
鬼界氏は『哲学探究』を、本体と第二部に分け、本体をパートⅠ~パートⅢ、そして全十六章に分ける。「第一章 言語とゲーム 新しい言語像」などタイトルも付ける。見通しはよくなる。でも本書の核心を裏切ってはいないか。
本書の核心。それは哲学が哲学のまま哲学をはみ出ることだ。
本書のあと、英米哲学は分析哲学や日常言語学派一色になった。例えば、人間の意図がどう言語に表われるか、みたいな研究。対象は言語や意図。哲学者は学術文体で論文を書く。堕落の極みだ。
『哲学探究』を見よ。L・Wはそんな哲学をしない。テキストの中でのたうち回っている。言語は対象でなく生きざまそのもの。人間が生きる事実のことだ。客体/それを考察する主体、に分離できないからこそ苦しむのだ。
この真相を明るみに出すには、ただの哲学では無理だ。それを示すのに、ウィトゲンシュタインは哲学を、哲学をはみ出すものとして演じた。哲学者をやめないが、ただの哲学はやらない。この世界に見渡しのよい中心はないから、章や節はなしにする。この思い切った決断が<哲学探究>なのだった。敬服するほかはない。
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