自著解説
『奴隷貿易をこえて―西アフリカ・インド綿布・世界経済―』(名古屋大学出版会)
大西洋経済が発展した18世紀を特徴づける「奴隷貿易」。2020年、BLM(ブラック・ライヴズ・マター)運動の一環で再び大きな注目を集めたように、今なおアクチュアルな問題として大きな意味を持ちつづける一方、アフリカをただ「周辺」「受動的な犠牲者」として捉えるような歴史像は、過去のものとなりつつあるようだ。日本・イギリスで学び、今年10月に『奴隷貿易をこえて』を出版した小林和夫氏は、この本の中で新たな世界経済史像を提示している。以下、小林氏が特別に書き下ろした自著解説を公開する。
18世紀は、大西洋経済が発展した時代であった。それは、南北アメリカ大陸とカリブ海域の奴隷制プランテーションを通じて、ヨーロッパの消費者向けに砂糖やタバコといった植民地産品を生産するシステムによって特徴づけられる。その生産活動を支えていたのが、アフリカの大西洋沿岸からの継続的な労働力供給――すなわち、大西洋奴隷貿易――であった。ただし、アフリカの大西洋沿岸で黒人奴隷や熱帯産品を購入するために、ヨーロッパ商人は、現地の商人や消費者の嗜好を反映した商品を持ちこまなければならなかった。というのも、彼らはアフリカ内部の地理的事情に疎く、またさまざまな疫病に対する耐性を持たなかったため、沿岸部に現れる現地商人との取引に依存しており、現地の消費者にとって魅力のない商品は受け取りを拒否された。そのような場合、奴隷などを購入できなかった。

当時、南アジアの熟練の織工は、布の染色やペイントといった最終加工のスキルに長け、世界各地の消費者の嗜好に応じた綿布を生産していた。色鮮やかで、多様なデザインからなるインド綿布は、何度洗濯しても、強い日差しにあたっても簡単に色落ちせず、耐久性に優れていることでも知られていた。ヨーロッパ人は、このような良質の綿布を現地の制度や仲介者を通じて調達しようと奔走する一方で、本国では、インド綿布の模倣品を作ろうと試みたのであった。
このような西アフリカと南アジアの経済関係は、19世紀前半の西アフリカで大西洋奴隷貿易に代わって、パームオイルやアラビアゴムなどの換金作物貿易が成長していく過程においても一定の重要性を保ち続けた。より厳密には、セネガル川流域で収穫されたアラビアゴムをフランス商人が取引する際、インド製の藍染綿布が貨幣として重要な役割を果たした。この藍染綿布は、セネガル川流域をゲートウェイとして、西アフリカやサハラ砂漠の交易ネットワークを通じて各地に流通し、時には衣類として消費され、時には貨幣として使用された。その一方、アラビアゴムは、輸出先のフランスやイギリスでは繊維生産において重宝されるなど、西ヨーロッパの工業化に寄与したのである。当時のヨーロッパの技術水準では、こうしたインド綿布を完全に模倣できるまでに至らなかった。そのためヨーロッパ人は、南インドのポンディシェリで藍染綿布を調達してから、セネガル川流域に持ち込んでいたのである。このように西アフリカと南アジアの経済関係は、大西洋奴隷貿易の時代をこえて、世界経済上、重要な役割を果たした。
[書き手]小林和夫(1985年生。現在、早稲田大学政治経済学術院准教授)
関心高まるアフリカ経済史 世界経済の興隆に果たした役割とは
昨今のアフリカ経済の動向やグローバル・ヒストリーの台頭は、「ルネサンス」と呼びうるほどのアフリカ経済史に対する関心を集め、アフリカ大陸で活動した多様な人々のエージェンシー(行為主体性)を他の地域との関連のなかで位置づけ直す研究が多く登場している。そこでは、かつてわが国でも注目を集めた従属理論や世界システム論のように、世界経済のなかでアフリカを「受動的な犠牲者」として捉える歴史像は、過去のものとなりつつある。西アフリカの消費者たち
本書では、18世紀から19世紀半ばの西アフリカの消費者の需要が、大西洋奴隷貿易とその後の換金作物貿易、西ヨーロッパの工業化、そして近代世界経済の形成――すなわち、工業国と一次産品生産地との間での分業構造の確立――とどのように結びついてきたのかを論じている。その目的は、これまでしばしば「周辺」とみなされてきた地域の消費者が、どのようにして経済のグローバル化――すなわち、貿易や投資、ヒトの移動などによって、さまざまな地域経済がより広大な地域あるいは世界経済へと連関し統合されていくプロセス――を規定したのかを提示することにある。それによって、世界システム論で取り上げられたような「中心―周辺」モデルによる説明とは異なる世界経済史像を描きだした。18世紀は、大西洋経済が発展した時代であった。それは、南北アメリカ大陸とカリブ海域の奴隷制プランテーションを通じて、ヨーロッパの消費者向けに砂糖やタバコといった植民地産品を生産するシステムによって特徴づけられる。その生産活動を支えていたのが、アフリカの大西洋沿岸からの継続的な労働力供給――すなわち、大西洋奴隷貿易――であった。ただし、アフリカの大西洋沿岸で黒人奴隷や熱帯産品を購入するために、ヨーロッパ商人は、現地の商人や消費者の嗜好を反映した商品を持ちこまなければならなかった。というのも、彼らはアフリカ内部の地理的事情に疎く、またさまざまな疫病に対する耐性を持たなかったため、沿岸部に現れる現地商人との取引に依存しており、現地の消費者にとって魅力のない商品は受け取りを拒否された。そのような場合、奴隷などを購入できなかった。
西アフリカで人気を博した「インド綿布」
それでは、どのような商品であれば、需要があったのだろうか。18世紀の西アフリカの海上貿易については、イギリスの貿易統計が充実した記録を残している。それを参照すると、同世紀を通じて繊維製品――そのなかでも、第2四半期以降はインド綿布――がもっとも重要な商品であったことが分かる。同時代の史料から確認できるかぎりでも、40におよぶ名称のインド綿布がヨーロッパ経由で西アフリカに持ち込まれていた。そのなかでも、ストライプやチェック柄の入った品種、そして藍染綿布は、西アフリカの消費者の間で人気を博した。西アフリカでは、ヨーロッパ商人が到来する以前から繊維生産・交易・消費はみられ、それを通じて、人びとは布に対する嗜好を形成していた。とりわけ、外来の布を所有することが、自らの権力や富の象徴となっていた。また藍染綿布は、サヴァンナ、サヘル(サハラ南縁の半乾燥地域)、砂漠など、強い日差しにさらされる地域では日除けの効果が期待できたほか、白い布を身につける人びととの差異化にもつながっていた。
当時、南アジアの熟練の織工は、布の染色やペイントといった最終加工のスキルに長け、世界各地の消費者の嗜好に応じた綿布を生産していた。色鮮やかで、多様なデザインからなるインド綿布は、何度洗濯しても、強い日差しにあたっても簡単に色落ちせず、耐久性に優れていることでも知られていた。ヨーロッパ人は、このような良質の綿布を現地の制度や仲介者を通じて調達しようと奔走する一方で、本国では、インド綿布の模倣品を作ろうと試みたのであった。
「三角貿易」論の限界
以上の事実は、通説でしばしば言及される「三角貿易」論――ヨーロッパ、西アフリカ、南北アメリカ大陸・カリブ海域の三点の連関から構成される地域貿易像――の限界を明るみに出す。本書では、これらの地域に南アジアを含めた新たなモデルを提示し、ヨーロッパ商人を仲介として結びついた、西アフリカの消費者と南アジアの織工の関係が、18世紀の大西洋経済の発展に大きな役割を果たした歴史を描きだした。すなわち、奴隷貿易を軸とする大西洋経済の発展は、大西洋という空間的枠組をこえて、他地域との連関を視野に入れることではじめて理解できるようになるのである。このような西アフリカと南アジアの経済関係は、19世紀前半の西アフリカで大西洋奴隷貿易に代わって、パームオイルやアラビアゴムなどの換金作物貿易が成長していく過程においても一定の重要性を保ち続けた。より厳密には、セネガル川流域で収穫されたアラビアゴムをフランス商人が取引する際、インド製の藍染綿布が貨幣として重要な役割を果たした。この藍染綿布は、セネガル川流域をゲートウェイとして、西アフリカやサハラ砂漠の交易ネットワークを通じて各地に流通し、時には衣類として消費され、時には貨幣として使用された。その一方、アラビアゴムは、輸出先のフランスやイギリスでは繊維生産において重宝されるなど、西ヨーロッパの工業化に寄与したのである。当時のヨーロッパの技術水準では、こうしたインド綿布を完全に模倣できるまでに至らなかった。そのためヨーロッパ人は、南インドのポンディシェリで藍染綿布を調達してから、セネガル川流域に持ち込んでいたのである。このように西アフリカと南アジアの経済関係は、大西洋奴隷貿易の時代をこえて、世界経済上、重要な役割を果たした。
アフリカ、アジア、ヨーロッパ…
以上でみたように、本書では、西アフリカの消費者と他地域との連関に注目する一方で、南アジアの織工や、イギリスとフランスの商人といった主体の役割も視野に入れて、彼らの利害関係が交錯するなかでの、近代世界経済の多元的な成り立ちを論じた。現在、アフリカとアジア、ヨーロッパはなおいっそう深くつながりあい、グローバルな経済圏を形成している。世界経済の歴史に関心のある方はもちろんのこと、ぜひ多くの人に手にしていただけると幸いである。[書き手]小林和夫(1985年生。現在、早稲田大学政治経済学術院准教授)
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