書評
『フランソワ・トリュフォー』(原書房)
映画に愛をこめた男の孤独と苦悩
トリュフォーは「愛とやさしさ」の映画作家だといわれる。じっさい、彼は、女と子供のほかに主題はないと断言した芸術家である。だが、トリュフォーは「孤独と暗さ」の映画作家でもあった。母親から愛されないことにどれほど苦しんだかは、『大人は判(わか)ってくれない』を見ればよく判る。生者との付きあいより死者の思い出に親しみを感じる資質は『緑色の部屋』で全開になっている。
マドレーヌ元夫人から話を聞いた時、トリュフォーは常々「長生きできない」と口走り、ひどい抑鬱(よくうつ)症状にも悩まされたと彼女は語った。
本書には、トリュフォーの数々の愛ややさしさの挿話とともに、その孤独と暗さが克明に記録されている。彼は「少年時代に受けた目に見えない傷と暴力の一部を、心の奥に秘め、ずっと抱えていた」。それは彼の「知られている側面ほどは人々の尊敬に値しない」が、「知られざる側面のほうがずっと面白いのだ」。
少年時代からの娼婦(しょうふ)との交渉がたたって鑑別所で受けた梅毒治療のための連続38回の尻への注射から、ジャンヌ・モロー、カトリーヌ・ドヌーヴ等々、自分の映画に主演したほとんどすべての女優との恋愛関係まで、これほど詳しい伝記はめったにない。
トリュフォーは52歳で亡くなる直前まで三度も自伝の執筆を企て、そのため、恋人の手紙から請求書や薬の処方箋(せん)にいたるまで何でも保存し分類し、それを部門別ファイルに収めて、自分の映画会社のオフィスに保管していた。
だが、この極端な自己収集癖はナルシシズムからは遠く、子供時代の愛の欠如のせいで、常に足元から分解してしまいそうな自分という存在を、なんとか外側からの証拠でまとめ、つなぎとめようとした必死の作業に見える。本書の詳細な記述は、トリュフォーが生涯かけて集めた一次資料によって可能になった。
そうして結晶した人間像は弱さや苦しみを抱えこみながらも、映画への愛と仕事の力で一歩でもいいからいつも前へ進もうとする驚くほど実直な実践的精神である。そこに心からの感動を禁じえない。
朝日新聞 2006年05月07日
朝日新聞デジタルは朝日新聞のニュースサイトです。政治、経済、社会、国際、スポーツ、カルチャー、サイエンスなどの速報ニュースに加え、教育、医療、環境、ファッション、車などの話題や写真も。2012年にアサヒ・コムからブランド名を変更しました。
ALL REVIEWSをフォローする









































