書評
『目には見えない何か』(河出書房新社)
人の心不可解さ、描写に醍醐味
始祖のポー以来、推理小説は不可解な犯罪を扱うが、謎はすべて論理的に解明されなければならない。しかし、その約束がしだいに独り歩きして、論理の奇抜さを競う遊戯と化していった。ハイスミスも、映画化された初期作品『見知らぬ乗客』や『リプリー(太陽がいっぱい)』のころは、推理小説のトリッキーな遊戯性を否定してはいなかった。
だが、『殺意の迷宮』や『ガラスの独房』といった中期の大傑作では、人間の行為がすべて論理的に解明されるという推理小説の約束事を捨て、「人間はなにをしでかすか分からない」という根本的な不可知論がハイスミスの哲学となる。
むろん、あらゆるミステリー作家のなかで最も心理分析に長けた一人であるハイスミスは、人間の心理と行為を可能なかぎり論理的な連関のなかで描きだす。しかし、ぎりぎり最後の瞬間に、論理による説明を放棄して、人間の心の底知れぬ不可解さへとジャンプする。その目くるめく飛躍が彼女の小説の醍醐味だ。
ほぼ全作品が日本語に訳されてこれ以上ハイスミスが読めないと嘆いていたファンにとって、本書は干天の慈雨である。短篇集だけに、ミステリーにかぎらぬ題材の幅広さと、この作家の人間理解を凝縮した形で楽しむことができる。
たとえば、「生まれながらの失敗者」。事業に成功せず、実の兄に大金を騙(だま)しとられる男の話だ。子供が大好きだが、娘は生後二か月で死に、妻は子供の生めない体になる。だが、その悲しみは妻の前ではおくびにも出さない。なぜなら、
「あきらめることには慣れっこになっていたのである」
この簡潔で残酷な一文が書けるかどうかが、作家の、真の技量の分かれ目だ。
さて、主人公に突然叔父の遺産が転がりこむ! その現金をかばんに入れて運ぶ道中のハラハラドキドキはハイスミスのお手のもの。この男なら必ず失敗するだろう……。だが、驚きはラストにある。ここでも人間精神の不可解さがみごとにあらわになるが、冷徹な長篇とは異なり、読者の心は温かさに包まれる。チェーホフに比肩すべき作家なのである。
朝日新聞 2005年5月15日
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