書評
『街とその不確かな壁』(新潮社)
情動の「疫禍」巡り、希望と絶望の往還
なるほど、村上春樹はパンデミックの経験と視座を得て、あの初期作を感染症文学の文脈で再展開したのか。ひとは悪疫の防止も兼ねて都市を高い壁で囲んできたが、街が完全に外部と隔絶したらどうなるだろう。そんな場所を描いたのが、新作長編の前身となった中編『街と、その不確かな壁』(以下「中編」)であり、この中編をリユースした『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(以下『世界の終り』)だった。ここで言う疫病(えやみ)とは人の心である。中編と『世界の終り』は、暗い心の汚染を閉め出すか、折り合うかという葛藤でもあった。それに対する答えは二極に振れたのち、新作で分裂と融解というフェーズに入ったようだ。
三作とも現実世界と壁の中の並行世界という二層で展開し、壁、影、図書館、井戸、穴、夢、記憶喪失などの村上的モチーフが勢揃(せいぞろ)い。新作の第一部では、『世界の終り』では消えていた主人公と少女の交際が復活し、詳(つまび)らかにされるが、この関係の閉鎖性こそ村上文学の核心中の核心である。
少女はメンタルが弱く、本当の自分は「高い壁に囲まれた街」にいるのだと繰り返し話す。全てが美しく調和するそのゲーテッドシティは二人だけが住まう小宇宙となり、この交際は主人公に「混じりけのない」「百パーセントの心持ち」をもたらした。
村上は『ノルウェイの森』や『色彩のない多崎つくると巡礼の年』のような「乱れなく調和する共同体」にしろ、『1Q84』の二重世界のような純度の高い機構にしろ、完璧なあまり閉塞(へいそく)して致死性を帯びるものを継続して書いてきた。それが新作では、町営図書館を舞台に「私」の人生を描く第二部、壁の中に留(とど)まった男のその後を描く第三部において、成熟と解放に向かい、他方、主人公の後継者を登場させることで、「それ自体で完結する、堅く閉鎖されたシステム」が強化・補完されるという方向性の分裂が起きるのだ。
そう、本作では、壁の境界の曖昧さ、そして中編から持ち越された内外の反転ということも再び書かれる。この三作を通じて壁の内と外の世界の大きな違いといえば「心」の有無だ。壁の街では情動や感情は無用の害悪とされ、「影」として壁の外に廃棄される。「哀(かな)しみ、迷い、嫉妬、恐れ、<中略>自己憐憫(れんびん)……そして夢、愛」「いわば疫病のたね(、、)のようなものです」と。高い壁は心のばら撒(ま)く“ウイルス”への防御として築かれたのだ。
心を剥がれ壁に監視された清廉なディストピア世界でつましく生活を送るか、暗い心に冒されつつも不完全で人間らしい生を生きるか。中編では主人公は強い意志で壁の外に生還し、『世界の終り』では壁の中に留まった。しかし新作長編で主人公は二つに分かたれ、その決定にユレやブレが生じる。結果、留まると同時に出ていくという複雑な二往復が描かれる。そもそもどちらが「影」で「本体」なのか? また人間の取るべき道とは何なのか?という認知と倫理の提題をどちらも止揚しようとした末のツイストだろう。
哲学者アラン・ド・ボトンによれば、疫禍とは宇宙における不変の法則の劇的な顕現にすぎない。私たち人間は疫の抜本的な退治策を持たず、かといって戦いを放棄もせず、生と死、希望と絶望の間を行き来するしかない。村上はその真理を四十三年かけて書いたのだ。
ALL REVIEWSをフォローする





































