本文抜粋
『口の立つやつが勝つってことでいいのか』(青土社)
カフカや山田太一の作品の紹介で知られる文学紹介者の頭木弘樹さん。初のエッセイ集となる『口の立つやつが勝つってことでいいのか』が、2月14日(水)に刊行されました。好んで読書や言葉に親しんできたわけではないという頭木さんが、こうしていま、言葉と関わるお仕事をされているのはどうしてなのでしょうか——。ご自身の「生きること」と「言葉を使うこと」の関係が綴られた本書の「はじめに」を、特別に公開いたします。
活字はむしろ苦手で、ずっと本を読まない人間だった。今でも、読みはじめて数ページで投げ出してしまうことも多い。
それなのに「言葉を使う仕事」をするようになったのは、思いがけず二十歳で病気になったからだ。それも難病に。
自分の病状を医師に伝えないといけない。しかし、これが難しい。
たとえば、痛みひとつでも、これまでに経験したことのない痛みを、相手にわかってもらえるように伝えるのは、とても難しい。
ズキズキとか、刺すような痛みとか、もうこれまでに表現がある痛みならいいのだが、そうではない場合、自分で新しく表現を作らなければならない。
それはまるで、詩人や作家のような文学的な苦悩だった。「まだ言葉になっていないことを、言葉にしなければならない」のだ。
文学なんて、実生活とは縁遠いと思っていたのに、ちゃんと医師に病状を伝えられるかどうかという、命を左右する、きわめて現実的な、おそろしく実用的なシーンで、じつは文学が登場してくる。
言葉が好きで「言葉を使う仕事」を選んだわけではなく、実用に迫られて、生きるために、言葉と格闘してきた。
* * *
しかし、考えてみると、人は誰でも「言葉を使う仕事」をしているのではないだろうか。病人に限ったことではなく。
仕事だけでなく、人間関係でも、家族関係でも、自分ひとりで考えるにも、言葉はとても大切だ。言葉を使うことこそ、人間の特徴なのだから。
「ちゃんと言葉にしてくれないとわからない」と相手に不満を抱いたり、逆に「この気持ちは、とても言葉になんかできない」という思いを強く抱いたり。そういう経験のある人は少なくないだろう。
「言葉にしないとわからない」×「うまく言葉にできない」という問題は、じつは日常的につねに起きているのではないだろうか?
あなたが感じている生きづらさは、言葉にも関係していないだろうか?
* * *
何十年も同じ道を歩いて出勤していた人が、あるとき足をケガして、長年なれ親しんできた道が、じつはいかに傾いていたり、でこぼこしていたりする危険なものか、初めて気づいたと言っていた。
でも、足が丈夫なときだって、その傾きやでこぼこのせいで、つまずいたり、足をひねったりしていたかもしれないのだ。それをたんに自分のヘマだと思っていただけで。
それと同じように、難病という特殊な状況のせいで( ≒足のケガ)、言葉の難しさを強く意識するようになった( ≒道の傾きやでこぼこに気づく)、私の体験が、その他の多くの人にとっても、少しは参考になるかもしれない。たんに自分のヘマなのではなく、言葉の問題と気づけるかもしれない。
そうなるといいなあと願っている。
なお、最初に書いたように、私は活字が苦手で、本もすぐに投げ出してしまうほうなので、そういう私でも読めるように、いろいろ工夫してみた。
かえってうるさく思う人もいるかもしれないが、読書が苦手な人にも読んでもらえるといいなあと、これも願っている。
[書き手]頭木弘樹(文学紹介者)
「言葉にしないとわからない」×「うまく言葉にできない」
私はこうして、本を書くという、「言葉を使う仕事」をしているが、活字好きで読書好きというわけではない。活字はむしろ苦手で、ずっと本を読まない人間だった。今でも、読みはじめて数ページで投げ出してしまうことも多い。
それなのに「言葉を使う仕事」をするようになったのは、思いがけず二十歳で病気になったからだ。それも難病に。
自分の病状を医師に伝えないといけない。しかし、これが難しい。
たとえば、痛みひとつでも、これまでに経験したことのない痛みを、相手にわかってもらえるように伝えるのは、とても難しい。
ズキズキとか、刺すような痛みとか、もうこれまでに表現がある痛みならいいのだが、そうではない場合、自分で新しく表現を作らなければならない。
それはまるで、詩人や作家のような文学的な苦悩だった。「まだ言葉になっていないことを、言葉にしなければならない」のだ。
文学なんて、実生活とは縁遠いと思っていたのに、ちゃんと医師に病状を伝えられるかどうかという、命を左右する、きわめて現実的な、おそろしく実用的なシーンで、じつは文学が登場してくる。
言葉が好きで「言葉を使う仕事」を選んだわけではなく、実用に迫られて、生きるために、言葉と格闘してきた。
* * *
しかし、考えてみると、人は誰でも「言葉を使う仕事」をしているのではないだろうか。病人に限ったことではなく。
仕事だけでなく、人間関係でも、家族関係でも、自分ひとりで考えるにも、言葉はとても大切だ。言葉を使うことこそ、人間の特徴なのだから。
「ちゃんと言葉にしてくれないとわからない」と相手に不満を抱いたり、逆に「この気持ちは、とても言葉になんかできない」という思いを強く抱いたり。そういう経験のある人は少なくないだろう。
「言葉にしないとわからない」×「うまく言葉にできない」という問題は、じつは日常的につねに起きているのではないだろうか?
あなたが感じている生きづらさは、言葉にも関係していないだろうか?
* * *
何十年も同じ道を歩いて出勤していた人が、あるとき足をケガして、長年なれ親しんできた道が、じつはいかに傾いていたり、でこぼこしていたりする危険なものか、初めて気づいたと言っていた。
でも、足が丈夫なときだって、その傾きやでこぼこのせいで、つまずいたり、足をひねったりしていたかもしれないのだ。それをたんに自分のヘマだと思っていただけで。
それと同じように、難病という特殊な状況のせいで( ≒足のケガ)、言葉の難しさを強く意識するようになった( ≒道の傾きやでこぼこに気づく)、私の体験が、その他の多くの人にとっても、少しは参考になるかもしれない。たんに自分のヘマなのではなく、言葉の問題と気づけるかもしれない。
そうなるといいなあと願っている。
なお、最初に書いたように、私は活字が苦手で、本もすぐに投げ出してしまうほうなので、そういう私でも読めるように、いろいろ工夫してみた。
かえってうるさく思う人もいるかもしれないが、読書が苦手な人にも読んでもらえるといいなあと、これも願っている。
[書き手]頭木弘樹(文学紹介者)