書きたい 言葉を託して 余分を捨てて
散文という言葉の間口は広い。阿部昭が書くことについて遺した言葉をたどっていくと、広さを保障するものは、ある種の厳しさなのだとわかってくる。さらに言えば、その厳しさは理論や理屈ではなく、「小説なら小説を書くよろこび、あるいは単純に文章を書きたくなる気分」を、時代の流れや読者の好みを前にしてどれだけ衒(てら)いなく保ちうるか、そして書くよろこびを失わないために、どれだけ余計なものを捨て去るかにかかっている。言いまわしは平明でも、急所を突く間合いは鋭い。「書くということ」という冒頭の一篇は半世紀前に発表されたものだが、少しも古びていない。書きたい者は人から言われなくてもいずれ書き出す。それに対し、「自分を表現したいなどと曖昧なことをいっている連中はいつまで経っても一行も書きはしない」という胸をえぐるような指摘から、著者は書くことの本質にあっさり踏み込む。
私どもは自分が形をあたえてやるもの、一本の木とか一人の女とかいった自分以外のものに自分の言葉を託すことによってしか『自分』というものを表わせないのである。それが、書くということの意味なのだと思う。
書くよろこびを持ったうえで、自分以外のものに言葉を託すこと。ただし、書き出さない限り書くことが何であるかは摑(つか)みきれない。書きはじめたあと、変に飾ったりせず、地声を信じて前に進む努力を重ねていくうち、他者の文章に対する眼も育つ。身の丈に合っていない言葉、使いこなせていない言葉が、全体から浮いて見えるようになるのだ。そうなれば、自分の文章のなかでもすわりの悪い言葉を、ある程度までつまみ出すことができるようになる。
言葉というものは、覚えたからすぐに使えるといったものではない。なめてかかれば悍馬(かんば)のように人を振り飛ばす、容赦のない一面を持っている。
ただ書きたいという気持ちだけでも先に進むことはできない。手探りの状態を肯定しつつも、言葉との向き合い方に窮屈でない真摯(しんし)さがなければ文章は生まれないのである。
目的と手段を混同した問いかけを前にすると、軽いいらだちが顔を出す。たとえば、自分の小説は「日常性」を描いているなどと評されるが、「描きたいように描いたら、それが文壇で言うところの『日常性』とやらいうものに当るらしい」とする順序が正しくて、あえて日常性を描こうとしたわけではない。具体的な対象を描くことが内容に先立つのだ。
著者はまた、長篇以上に集中力と精読を要求するのが短篇だと説く。チェーホフ、ルナール、国木田独歩、梶井基次郎、石川啄木、志賀直哉、菊池寛、モーパッサン等々、意外な作品の細部に向けられた眼差しは、どれも創作と結びついた鮮やかな批評になっている。
「自分が書く短い小説をあっさり『短篇』と呼ばれることにも抵抗を覚える」とまで語る著者の姿勢は一貫している。時々、素っ気なく突き放されることもある。それなのに、巻を閉じると、もっと文学を読みたい、もっと書きたいという前向きな気持ちになる。自身に対する厳しさが読者への励ましになる事例は多くない。散文の基本だけでなく、人生の基本を語る一書だと言っていいだろう。