書評
『瑠璃菊の女: 旗本絵師描留め帳』(ベネッセコーポレーション)
元祿捕物帳
久しぶりに捕物帳を読んだ。それも最新の捕物帳だ。女流、小笠原京の『瑠璃菊(るりぎく)の女』。これは『旗本絵師描留(えがきと)め帳』シリーズの初巻だ。
捕物帳は岡本綺堂の『半七捕物帳』にはじまる。初篇の雑誌掲載が一九一七年だからちょうど八十年前になる。シャーロック・ホームズものの和風化をめざして大成功をおさめ、以来、人情話に謎ときをからめる形式をさして変えずに連綿と書きつがれ、読みつがれてきた。
どんなジャンルでも創始期に傑作がものされる。捕物帳も書いた多岐川恭は、捕物帳は半七と平次につきる、といっている(野村胡堂の『銭形平次捕物控』の登場は一九三一年)。
僕も子供の頃、よく「御用、御用だ」と半七、平次をきどったものだが、小笠原京も子供の頃からの捕物帳ファンで、小学生上級ごろの尊敬する人物が銭形平次。これはちょっと型破りの女の子だ。そのせいでかどうか、長じて学者になり、
「浮世絵師菱川師宣の周辺を調べていたところ、突然、長谷川町の借家の縁先に突っ立って空を眺めているダンディーな絵師の姿が見えてきた」(あとがき)とある。
さて、その絵師の立ち姿が、シリーズ第一作『瑠璃菊の女』の出だしで、
「大伝馬町からきて長谷川町の角を曲がるとすぐ、低くめぐらせた板塀越しに、薄縹地(うすはなだじ)に肩から裾にかけて花菱つなぎを白く抜いた着流し姿が縁に立っているのがちらりと見えた」
と書かれるヒーロー、新三郎に他ならない。
新三郎は千三百石取りの旗本の三男坊で、剣も使うが絵筆も立つ。師匠の師宣(もろのぶ)も一目おくほどの才なのに板下絵師に甘んじているのは、小僧一人相手の気ままな町家暮らしになじんで、一人立ちが面倒くさいかららしい。
どんな絵を描いているのかは下絵を催促にきた地本屋(じほんや)の番頭のセリフを借りると、
「屏風(びょうぶ)のかげに半身隠している女の目つきといったら、どうもたまらないねえ。衣桁(いこう)に掛けた小袖なんざ、いま脱いだ女の匂いがむっとするほどこもっている。それに、縁に置いてある秋草の籠で、ねちっこさがすっと抜けて……」
そういう新三郎が、女に突きあたりかけ、あまりの美形に後ろ姿を描きとめたことから、米相場にも関わりそうな事件に巻きこまれて、その女が無惨な死をとげる。
物語は、事件が決着したのちに、描いた下絵を前にしての新三郎と地本屋の番頭とのやりとりでしめくくられる。
……散りかかる花吹雪の中に、小袖を肩にかけ、扇を開いていましも舞い初めたと見える白拍子が描かれていた。昂然と上げた面にみなぎる凛然たる気迫。
「義経記さ」と新三郎。
「こんな女が、いたんでしたねえ」と番頭。……
死んだ女をめぐる、このやりとりのじいんとくる後半は引用しないでおく。
半七も平次も目明かしだが、新三郎が活躍するのは目明かし稼業がまだなかった元祿の初め。捕物帳でははじめての時代選びではないだろうか。この巻には表題作の他五篇をおさめるが、どれにも新三郎や女たちの衣裳に元祿ならではの色づかいの妙があらわれている。
筆は冴えている。懐の深さも感じる。そして、作者の筆力はむろんのこと、ここは捕物帳という八十年も前から変わっていない形式に忠実な功もいっておきたい。新しい酒は新しい皮袋に盛るだけが能ではない。ときには古い皮袋に盛られたほうがほろりと酔える。
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