書評
『片意地へんくつ一本気: 下田うなぎ屋風流噺』(文藝春秋)
片意地へんくつ一本気
客の顔を見てからうなぎを裂きはじめるという、いまどき珍しくいこじな仕事をしているうなぎ屋が主人公。題して『片意地へんくつ一本気』。『風の盆恋歌』『短夜』『花ものがたり』などなど、いこじなくらい名篇だけしか書いていない高橋治の最新作だ。副題に「下田うなぎ屋風流噺」とあるとおり、伊豆の下田を舞台にしている。
高橋治の小説はいつも実在の土地で展開される。だから「下田にしては大きなビルの銀行の角を右に曲がって」などと書いてあると、そんなうなぎ屋が実際にありそうな気にさせられる。
客の顔を見てからというだけじゃなく、「客が召し上がりたいってときに、こっちが休んでますじゃ、申訳がたたねえ」と言って、一年を通じて一日たりと店を休まない。そのくせ、かきいれ時の土用の丑の日は、忙しすぎて品に責任がもてないから休業日にしたい、それがおれの夢だ、とも言う。
だが休むわけにはいかない。五百万円という大金が即刻ほしいからだ。別居中の妻から、それだけ持ってくれば離婚届に判をつく、と言われているのだ。
店に働きにきているバツイチ女、礼子とは気持を通わせているのに、正式に離婚するまではとばか固いことを思っている。
そんな昔気質の男を仲間たちは、川井剛造という名をもじって「固い強情」と読んで冷やかしながら応援する。そういう仲間にしたって尋常とは程遠い。
大島に住んで椿の新種作りに励んでいる男とか、モダン・ジャズのLPの膨大なコレクションを持っている喫茶店主とか。
ブリリアント・コーナーという、店名とは大違いの薄暗いその喫茶店で剛造(と仲間)たちは金策をめぐらし、取らぬたぬきの皮算用をするのだが、物語の必然上、五百万円は剛造の手をすりぬけていき、礼子は手の届かない花のままに留まりつづける。
礼子を侘助の変種である名花、天倫寺月光(がっこう)にたとえる場面がある。
……礼子は暗い店の中に、一点の灯をともしたように静まり返っている。天倫寺月光の乱れと共通するものは全くない。だが、どこか、誘いこむ魅力を持っていて、しかも、それを表に出さない。
畜生め、女って奴は、という剛造のつぶやきがつづくが、その毒づきが置かれていなくても、女を花にたとえるいやったらしさがまったく感じられないのは、文品なのか。
書き遅れたが、この小説は一応は長篇だが連作短篇の体裁をとっていて、紹介したあらすじはそれぞれが読み切りの五篇のうちの第一話にあたる。
以後の各篇で剛造は銀行員や税務署員と闘ったり、定数と立候補者数が同じ馴れ合いの市議選に義憤を感じて立候補を宣言したり、と小説の世界がどんどん広がり、不動産屋、医者、神主、市会議員、市長といった錚々たる人物が続々登場する。
小説の主人公から生気と広い活躍の場が失われてずいぶん久しい。理由はさまざまに考えられるが、結局は作家に見きわめがないからだ。高橋治は大方の隙をついて、意地が売りものの職人を見つけたわけではないだろう。日本人の美質は職人気質に落ちつく、サラリーマンも商人も政治家も根は職人――あるいは彼にはそんな見きわめがついているのかもしれない。
この小説は漱石の痛快作『坊っちゃん』の変種といっていい。坊っちゃんが長じて意地っぱりのうなぎ屋になるなんて、大いにありうることじゃないか。
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