書評
『物語 パリの歴史-「芸術と文化の都」の2000年』(中央公論新社)
ルーヴル美術館はもともと城だったが、16世紀、移動生活が多かったフランソワ一世が主たる居城として明示すべく大改修を始めたという。
事業は、アンリ二世とその王妃カトリーヌ・ド・メディシスにも受け継がれ、宮殿と庭園は拡大されていった。とくにフィレンツェのメディチ家出身の王妃は、都市の美化に、ルネサンス本場の人として熱意を燃やしたらしい。やがて後世には、そこから西に真っ直ぐ延びるシャン・ゼリゼの開発にもつながっていく。
中世以来のパリには、広場空間はあまりなかった。ノートルダム大聖堂の前にもなく、ことさら大きく見上げられたという。17世紀のルイ一四世のもとで、広場が設けられた。
今日のパリを見るうえで、ナポレオン三世とセーヌ県知事オスマンによる大改造は特筆もの。道路開設と地下にある上下水道整備と配管が実施された。建築・公園・街路樹などが整然と計画され、ガス灯の照明が岩倉使節団の心を打ったという。
ローマ都市に起源するパリには、殉教の丘モンマルトルがあり、中世は学術文化の都だった。パリを愛する歴史家が「芸術と文化の都」の2000年を熱く語っているのが心地よい。
事業は、アンリ二世とその王妃カトリーヌ・ド・メディシスにも受け継がれ、宮殿と庭園は拡大されていった。とくにフィレンツェのメディチ家出身の王妃は、都市の美化に、ルネサンス本場の人として熱意を燃やしたらしい。やがて後世には、そこから西に真っ直ぐ延びるシャン・ゼリゼの開発にもつながっていく。
中世以来のパリには、広場空間はあまりなかった。ノートルダム大聖堂の前にもなく、ことさら大きく見上げられたという。17世紀のルイ一四世のもとで、広場が設けられた。
今日のパリを見るうえで、ナポレオン三世とセーヌ県知事オスマンによる大改造は特筆もの。道路開設と地下にある上下水道整備と配管が実施された。建築・公園・街路樹などが整然と計画され、ガス灯の照明が岩倉使節団の心を打ったという。
ローマ都市に起源するパリには、殉教の丘モンマルトルがあり、中世は学術文化の都だった。パリを愛する歴史家が「芸術と文化の都」の2000年を熱く語っているのが心地よい。
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