書評
『ほんのささやかなこと』(早川書房)
つつましい男が向き合う町の秘密
130ページほどの、短い小説だ。けれど、読み始めるなり惹きこまれ、その短さも、時間も、忘れる。古典を開いたときのような、ゆったりした感覚が訪れる。少年少女小説に親しんだ読者なら、あれらを手にしたときの没入感を思い出すかもしれない。一瞬にして、窓の外にアイルランドの晩秋が広がり、「出自のわからない男」ビル・ファーロングの少年時代に思いを馳せることになる。ビルは石炭や木材を商う小さな会社を営み、妻といっしょに五人の娘を育てている中年男だ。
でも、本書は古典でもなければ少年少女小説でもない。クレア・キーガンは現代文学の旗手で、本書は2021年に書かれた。舞台設定は1985年。北アイルランド紛争が続いていて、アイルランド共和国の失業率は高く、外国に出稼ぎに出る人も多かった。
小説中最も衝撃的なのは、マグダレン洗濯所の描写だろう。婚外交渉で身ごもった女性が収容されて苛酷な労働に従事させられ、子どもは強制的に里子に出されたというこの洗濯所は、1996年まで共和国各地に実在し、2013年に当時の首相エンダ・ケニーが公式に謝罪した。収容体験を持つ人は存命し、国家による補償問題は、いまもくすぶるという。
文体はしかし、告発や論争とは程遠く、とても静かで平易だ。小説は、タイトルどおり、ほんのささやかなことの積み重ねでできている。アイルランドの晩秋から冬にかけて。時間は、この国の敬虔な人々が大事にしているクリスマスに向かっている。
ビルが暮らすニューロスの町には悪天候が続くが、人々はあきらめと共に耐え、ちいさな「身過ぎ世過ぎ」をたいせつにして暮らしていた。ビルの上の二人の娘たちは、町の名門校「聖マーガレット学院」に通う優秀な子たちで、真ん中の二人にも音楽の才能があり、末っ子は読書好きだ。この女の子たちが礼儀正しく振舞うのを見ると、ビルの胸に父親としての誇らしさがこみあげて来る。妻と娘たちがクリスマスケーキを焼く準備をしたり、サンタさんにプレゼントを頼んだりする、家族のささやかな幸福の描写が美しい。
その、静かなクリスマスシーズンに、ビルは「聖マーガレット学院」を擁する修道女会に石炭を届けに行き、娘たちが通う名門校と高い塀ひとつで隔てられた洗濯所を、目撃する。そしてつましい生活を守る敬虔な人々が蓋をしていた、その町の秘密と向き合うことになる。
小説はビルのある決断でクライマックスを迎えるのだが、重要な鍵となるのは彼の生い立ちだ。彼の意識は七人家族のいまの生活と、父親知らずの子として育った自らの半生を行きつ戻りつする。記憶に刻まれた痛みも悲しみも遠慮がちな喜びも、ささやかなエピソードの奥から読み手に響いてくる。
ビルの行動の先に何が起こるのか、小説には書かれない。それだけに、何度も何度も考えてしまう。
この短い小説は、一行として読み逃せない。静かな小説のありとあらゆるディテールが、ビルの行動の伏線になっている。そしてそのエピソードの連なりが、彼は、彼らは、その後どうなったのか、あるいは、もし自分ならどうするのかといった、いくつもの問いを読者に投げかけてくる。
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