ロシア革命後の内戦
×月×日家族人類学的に世界の農民小説を読み、トッド分類の家族類型を抽出するという連載を続けている。本番の『静かなドン』の登場とあいなったが、メイン・テーマであるロシア革命後の内戦の経過はあまりに複雑なので、参考書を探していたら、お誂え向きの本が見つかった。アントニー・ビーヴァー『革命と内戦のロシア 1917-21』上下(染谷徹訳 白水社 各三九〇〇円+税)である。
ひとことでいえば、ロシア革命を形容するのに「夢」とか「ロマン」などという言葉を冠しては絶対にいけないということが骨身に染みてわかる本である。
著者が第一に指摘するのは、内戦の苛酷さの遠因はロシアの農奴制の苛酷さにあるという事実。無慈悲な圧政に苦しむ農奴や都市の労働者は、圧政のたががゆるむ瞬間を待ちわびていたが、ロシア革命は彼らに怨念を晴らす絶好の機会を与えることになる。
第一次世界大戦中の一九一七年二月二三日のデモをきっかけに、ペトログラードのネフスキー大通りでデモ隊と騎馬警官隊の発砲によって二月革命が起こり、ブルジョワ民主派の臨時政府が成立したが、混乱はなお続いていた。
そんなときチューリッヒに亡命していたレーニンが封印列車で帰国した。帰国を促したのは、臨時政府首相のリヴォフ公とメンシェヴィキの指導者ユーリー・マルトフだった。
リヴォフ公は「ロシアを『世界で最も自由な国』にすれば国民の道徳性を向上させることができると単純に信じていた」性善説の政治家で、マルトフは反革命勢力を抑えるにはレーニンの帰国が必要と判断、スイスでドイツ側と接触することを提案した。
ではレーニンはというと、「階級の敵から支援を受けることについて些かも良心の痛みを感じなかった。さらには、プロパガンダのための資金援助をドイツ皇帝の政府から受け取ることも厭わなかった。レーニンにとっては、ボリシェヴィキによる権力奪取に役立つことなら何でも許されたのである」。
レーニンはペトログラードのボリシェヴィキ本部に到達すると、革命の中間的段階としてのブルジョワ民主主義を否定し、暴力によるソヴィエト権力の樹立を主張した。
ボリシェヴィキの幹部たちは仰天した。レーニンの話はとうてい正気の沙汰とは思えなかった。
ボリシェヴィキ単独で全面的に権力を掌握すべきだと固く決心していたレーニンは、将来実現するはずの共産主義社会の実像を明かすような間違いは犯さなかった。
テフィー[本名ナジェージダ・ロホヴィツカヤ]を何よりも驚かせたのは、レーニンが人間というものをあまり高く評価せず、個々の人間を消耗品と見なしている点だった。『人間の価値は大義実現のために必要かどうかによってのみ決まる』。
思うにロシア革命と内戦、それに続くスターリンの粛清、独ソ戦の残虐性は、すべてこのレーニンの反人道主義と徹底した利用主義に起源を持っている。
同じことをレーニンの親友ゴーリキーは一〇月革命直後の一九一七年一一月七日付の新聞『ノーヴァヤ・ジーズニ』で書いている。すなわち労働者階級を待っているのは飢餓、産業の混乱、輸送の崩壊、延々とつづく血なまぐさい無政府状態、同じように血なまぐさい反動であると指摘してから、ゴーリキーはこう結んでいるのだ。「レーニンは万能の魔術師などではなく、むしろプロレタリアートの名誉も生命も斟酌しない冷血の奇術師であることを理解すべきである」
その後の展開はゴーリキーの予想通りとなった。レーニンの暴力絶対視と冷血ぶりは一〇月革命直後からいかんなく発揮された。
ボリシェヴィキがロシア全土で権力を掌握し、維持するための唯一のチャンスは暴力を通じてすべてを白紙状態に戻し、過去に復帰する可能性を消し去ることだ、というのがレーニンの年来の信条だった。
レーニンの性質のもう一つは自分に反対する意見が出ると、それを背信、妨害として断罪することだった。ボリシェヴィキは憲法制定議会選挙で多数派となることが不可能と見るや、選挙の不正を言い立て、反ボリシェヴィキが抗議デモを組織すると苛酷に弾圧した。
だが、最もレーニンらしい決定は、都市部の深刻なパン不足はブルジョワの投機業者の責任だとして、「チェーカー(反革命、投機行為、怠業行為と戦う全ロシア非常委員会の略称)」を設立し、長官に「禁欲の怪物」のようなポーランド人の没落貴族ジェルジンスキーを任命したことだろう。
チェーカーの職員は自分たちを『革命の剣と炎』と呼んでいた。この定義は、自然的正義や生命尊重などの人間的理想よりも自分たちの大義を優先するボリシェヴィキの理想化された冷酷さを表現していた。
ジェルジンスキーはチェーカー職員に純粋な若者を希望していたが、「レーニンは現実的だった。犯罪歴のある者、殺人の経験者、精神病質者などがチェーカー組織にもぐり込むことをレーニンは覚悟していた」
チェーカー職員の過半数は非ロシア人で、なかでもラトヴィア人が多かった。レーニンの革命はユダヤ人の頭脳とラトヴィア人の銃剣のおかげだと言われたが、内戦が激化するとチェーカーのラトヴィア人部隊は最も容赦なくその任務を遂行することになる。
一九一八年があけると、ボリシェヴィキは憲法制定議会を解散させた。「開放的精神が冷酷で偏狭なボリシェヴィキに立ち向かっても勝ち目はなかったのである」。
ボリシェヴィキは、ケレンスキー内閣で廃止された死刑を反革命分子を殲滅するためと称して復活させ、対象を無限に広げていった。
翌月、レーニンは、裁判その他のいかなる司法手続きもなしに拷問し、処刑する権限をチェーカーに与えた。山のように膨大な取り扱い件数を抱えるチェーカーにとって、事件をいちいち捜査するよりも容疑者を死刑に処する方がはるかに簡単だった。チェーカー職員の労働時間は長かったが、無限の権限を握って容疑者を拷問し処刑するという仕事への応募者は後を絶たなかった。
すでに始まっていた赤軍と白軍の内戦が陰惨な皆殺しの戦いに変るのに時間はかからなかった。ロシア内戦に捕虜は存在しないのである。レーニンは「ブルジョアジーを絞め殺さなければならない。そのためには両手を自由に使えるようにしておく必要がある」として、ブレスト・リトフスク講和を急ぎ、内戦勝利に全力を注いだ。その内戦の経過を本書は詳しく追っているが、およそ戦争の歴史でこれ以上におぞましい戦史はない。しかし、この歴史を正視しないかぎり、われわれは同じ誤りをまた犯すことになるだろう。
【下巻】