書評
『紫式部日記』(角川学芸出版)
「なのめなる」ことへの憧れ
『紫式部日記』は、十七歳の頃の私の愛読書の一つだった。当時はまだ、満足に『源氏物語』も読破していなかった私が、どうしてこの作品を読んでみようという気になったのかは今では分からないが、一読して忽ちその魅力に惹かれ、以後長らく私の文学的な青春に典雅な彩りと深い寂蓼の影とを添えることとなった。私が、人によっては『源氏物語』の感動を期待して読み、大いに幻滅して、退屈するか、或いは「紫式部とは嫌な女だ」といった類の感想を漏らすこの作品の一体何処にそんな魅力を感じていたかは明白である。些か奇異にも響くかもしれぬが、私はこれを殆ど初期のトーマス・マンの短篇を読むような気持ちで読んでいた。この突飛な連想を、私は今以て訝らない。そしてそれ故にこそ、この作品は当時の私にとって、最も切実な問題に関わっていると思われていた。
紫式部は孤独であった。その孤独は、いかにしても慰めようのない孤独に見える。日記の冒頭から、彼女は、中宮彰子の出産を控えた土御門殿の様子を微に入り細に入って一つ一つ丁寧に記録してゆく。その筆は、「うつし心をばひきたがへ、たとしへなくよろづわすらるるにも、かつはあやし」という言葉とは裏腹に、華やかな宮中の様子をありのままに伝えて、決して自らは華やぐことを知らない。彼女の意識は透徹している。眼前で起こりつつある事態のすべてを理解し、しかもそれを、遂に自らは参加することのない遠い現実としてひたすらに眺め続ける。作品の最も美しい場面は、彼女がそうした自分の眼差に気がつき、物憂く内省の淵に沈み行こうとする時に訪れる。若宮が誕生し、一条天皇の行幸を数日後に控えて、土御門殿はその準備の為に一層の賑わいを見せる。そうした中、独り心浮かれぬ彼女は、夜明けの池に浮かぶ水鳥に自らの思いを託して「水鳥を水の上とやよそに見む/われも浮きたる世を過ぐしつつ」と詠むのである。
彼女は言う。
思ふことの少しもなのめなる身ならましかば、すきずきしくももてなし、若やぎて、つねなき世をもすぐしてまし。
彼女は、自分がいかに世間一般の人間と異質であるかを知っている。そして、その異質さの為に、自分がどれほど人生から疎外されているかを知っている。彼女の「思ふこと」を、単に出家への願いとするような浅薄な解釈は信じまい。それは、「思ふこと」の実体を性急に求める余り、作品の本質を見失わせる態度である。なるほど、彼女に「聖にならむ」とする「思ひ」のあったことは確かである。しかしそれは、寧ろ彼女が尋常ならざる「思ふこと」に耐えかねて引き出した救済を得る為の方策に過ぎない。彼女の「思ふこと」には殆ど実体がない。実体がない分、いかなることであっても「思ふこと」となり得る。その過剰こそが、彼女に「なのめなる」ことへの憧れを抱かせるのである、
紫式部が清少納言を認めないのは、彼女が定子の許に仕えていたからというような単純な理由からばかりではない。清少納言の好んで披瀝する教養と才能とを偽物と考えているからである。真の才能とは、その持ち主を脅かし、他者との間にどうにも埋め難い懸隔を作り上げてしまうものである。それは、余りに多くを見せ、余りに多くの思索を強いる。『源氏物語』のような途方もない作品を生み出す才能とは、或る種異様な、禍々しいものである。紫式部は、そのことを誰よりも一番よく知っていた。だからこそ彼女は、女が漢籍を学ぶことへの偏見に、内心「物忌みける人の、行くすゑいのち長かめるよしども、見えぬためしなり」と合理的な反駁を行いながらも、「かくおはすれば、御幸はすくなきなり」という陰口の言葉に、それを口にした本人さえもが理解していない一つの深い真実を認めて、人前では、「一といふ文字をだに書きわたしはべらず」、「ほけ痴れたる人」の如く振る舞うのである。それは、彼女が現実の世界と和解し得る唯一の方法であった。そうした彼女の目には、清少納言の衒気芬々たる言動は、いかにものんきな才能の印のように映ったに違いない。清少納言は、「なのめなる」ことへの憧れなど生涯一度も実感したことがなかったであろう。才能は、遂に彼女の生活を脅かさなかった。だからこそ彼女は、「人にことならむと思ひこのめる人」であり得たのである。
憧れとは常に対岸へと馳せる思いである。才能に憧れ、凡俗を忌み嫌うのは、畢竟凡俗の岸辺に立つ者である。『紫式部日記』は、そうした複雑な心理を明らかにした恐らくは世界で最初の記録であった。彼女の晩年については余りよく分かっていないが、その孤独が生涯慰められなかったであろうことは想像がつく。 それは、彼女の死後千年を経った今でも、彼女を「なのめなる」世界から遠ざけ続けている孤独である。
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