コラム
シェイクスピア『ロミオとジュリエット』(新潮文庫)、『古事記』(岩波文庫)、『万葉集』(岩波文庫)、『源氏物語』(岩波文庫)
危機の中の恋
ませていたのかもしれない。幼稚園のころ、図書室の、裏が緑のラシャで表地が黒いカーテンの後ろに男の子と二人で隠れんぼしたのが、私の初恋だった。遠足で水筒とバッグを斜めに肩からかけて、彼と手をつなぐときもドキドキした。その次は小学校一年のとき、校舎の裏の崖でじゅず玉をつんで、校庭の隅に二人で埋めて隠した。隠れたり、隠したり、秘密をもつことは恋のはじめのようだ。二年になるとまた別の子を好きでたまらなくて、三年の始業式の日、クラス替えで別のクラスになったなら、その子の胸に顔を埋めて泣こうと思いつめたりした。
そんな感情を持ったのは、私が早くから、本を読んでばかりいたためかもしれない。幼稚園のときの『フランダースの犬』。パトラッシュを連れた少年ネルロに、私は少女アロアのように同情し、愛した。子ども向きに書き直した『源氏物語』も、いま思えば皇国史観か立川文庫(たちかわぶんこ)流の歴史のシリーズの大国主命(おおくにぬしのみこと)や義経の恋も私を興奮させた。
私の胸を高鳴らせたヒーローとヒロインたちを思い出してみる。
まずはアーサー王と円卓の騎士たち。これは『ランスロット』という映画を父と見たのが決定的だったのだが、騎士ランスロットは王妃ギネビアの輿(こし)入れを守護して旅をつづけるうち、主君の妃と通じてしまう。塔に幽閉された王妃を助け出しに、塔にしのんでゆく騎士のカッコ良さ。
ずっとのちに深夜テレビで見たら二流の歴史映画でがっかりしたが、私は興奮して、ブルフィンチ『中世騎士物語』や『トリスタン・イズー物語』をはじめ、ありとあらゆる西洋の騎士物語を読んだ。
次はやっぱり『ロミオとジュリエット』。ラム姉弟の挿絵付の『シェイクスピア物語』は、それこそ何百回めくったかわからない。仇同士の旧家に生れ、娘には親の決めたいいなずけがいた。
二人は仮面舞踏会の夜、そうとは知らずに恋に落ちた。
私にとって唯一つの恋が唯一つの憎しみから生れる! 知らずにお会いしたのが早過ぎて、知った時にはもう遅すぎる!
中学に入るとすぐ、新潮世界文学のシェイクスピア(福田恆存訳)を買い、オリビア・ハシーとレナード・ホワイティング主演の映画を日比谷に見に行った。銀座のイエナ書店で英語版を買い、図書館にあった古い坪内逍遥訳全集まで読みふけった。
西洋の本だけではない。『古事記』などはもう全編、恋と死の匂いでむせかえるようだ。もちろんこれも最初は『古事記物語』といった翻案物で、天の岩戸の前のアメノウズメのストリップにびっくりしたくらいだろう。が、岩波文庫の『古事記』にはもっとすばらしい情熱がある。
たとえば垂仁天皇の妃沙本媛(さほひめ)は、同母の兄沙本彦に「夫(を)と兄(いろせ)と孰(いず)れか愛(は)しき」と問われて「兄ぞ愛しき」と答えたため謀反を教唆される。夫である天皇を刺せ、といわれて「哀しき情(こころ)に忍びずて、頸を刺すこと能(あた)はずして、泣く涙御面に落ち溢れき」というのだ。(このところアンデルセンの『人魚姫』や『三国志』にも似た話がある)
企てが露見して兄に従う妃を、天皇は忘れかねて奪還しようとする。髪でも着物でもつかんでひき戻せ、という夫の命を知って、沙本媛は髪を剃ってかつらで頭をかくし、酒で衣を腐らせて引けば破れるようにした。そしてみごと、恋する兄に殉じて死ぬ。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の話も心を刺すようだ。まつろわぬ民を平定せよと父に命令され、「天皇既に吾(あれ)死ねと思ほす所以(ゆえ)か」とつぶやく。(ここを、現代語に直すと悲劇性が薄まってしまう)
そして、海神を怒らせた夫の窮地を、弟橘媛(おとたちばなひめ)は自ら犠牲(いけにえ)となって救うのである。
さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
走水の海(相模水道)に彼女がひらり飛びこむとき、女の最後の声はかつての、危機の中での恋の思い出だった。
このほか速総別(はやぶさわけ)王と女鳥(めどり)王も、木梨(きなし)の軽太子(かるのみこ)と軽大娘(いらつめ)(衣通姫(そとおりひめ))も、恋のために身を亡ぼしてゆく。なんと単純で力強い悲劇だろうか。
『万葉集』の岩波文庫はボロボロである。好きな歌に丸がついてたり、赤線がひいてあったり、何度も朗読したから、いくらも暗誦できる。
君待つとわが恋ひ居ればわが屋戸の簾うごかし秋の風吹く
恋人を待つ切なさ、微妙な心の揺れ。この名歌を詠んだ額田王のお姉さん、中大兄皇子の寵を争った鏡女王も負けてはいない。
神奈備(かむなび)の伊波瀬(いはせ)の杜の喚子鳥いたくな鳴きそわが恋益(まさ)る
ふりしぼるようではありませんか。だけれど、どれをとるかといわれれば、同じく中大兄の政略で従容と死につく有馬皇子の二首が、白眉だろう。
磐代(いはしろ)の浜松が枝を引き結び真幸(まさき)くあらばまたかへり見む
家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
いまも紛争や戦火は地球上に絶えず、人の命はいかにも軽い。しかし簡単に殺される人間がその直前に、このような自然への深々とした愛、小さな日常のしぐさを懐しむ歌を詠むとは。そのころ読書仲間の級友はそれぞれ『万葉集』の中に憧れの人を見つけていたけれど、私は断然、有馬皇子ファンだった。
もう一つ、『万葉集』で忘れられないのは、葛飾の真間の手古奈(てこな)の伝説である。彼女は何人かの男に愛され、悩んだあげくついに入水したという。
……望月の 満(た)れる面わに 花の如 咲(え)みて立てれば 夏虫の 火に入るが如 水門(みなと)入に 船榜(こ)ぐ如く 行きかぐれ 人のいふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 浪の音の 騒く湊の 奥津城(おくつき)に 妹が臥(こや)せる 遠き代に ありける事を 昨日しも 見けむが如も 念(おも)ほゆるかも
海をわが墓とした娘。高橋虫麻呂がその伝説をしのんで歌った長歌である。これに夢中になって、私は市川の真間をたずねたことがある。
平安時代になると、男も風が吹けば泣き、月の傾くのを見て泣いて、軟弱このうえなく見えるけれど、私は泣く男が好きで、定期試験が終わると、古風な『伊勢物語』をいつも寝ころがって読んでいた。
恋のために人の娘を盗むのは盗人である。しかし盗まれた女はそのうち男が好きになってしまう。男はとうとうつかまって女を草むらにおいて逃げる。追手がこの野には盗人がいるから火をつけようとするとき、女が困って詠んだうた。
武蔵野はけふはな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり
結局、二人とも捕まって引き立てられるのだけれど、この気持、胸にいたい。
このように恋というのは遠さの自覚で、その人を思っても、触れることのできない障害や禁忌があるからこそ燃え上るのである。主君の妻だったり、実の兄に魅かれたり、敵と味方であったり……。
『源氏物語』で一番好きなシーンはやはり、「花宴」の朧月夜の君との出会いだ。桜の宴が果てて、酔心地の源氏が弘徽殿の細殿あたりをふらふらすると戸が開いている。「朧月夜に似るものぞなき」と誦(ず)して来る女がいる。ふと袖をとらえる。やおら抱き降ろして、戸を立てる。
あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。わななくわななく、「ここに、人」とのたまへど、「まろは皆人にゆるされたれば、召し寄せたりとも、なんでふことかあらん。ただ忍びてこそ」とのたまふ声に、「この君なりけり」と聞き定めて、いささか慰めけり。
昔の宮中は自由な性の実践場だったらしい。高位で美男子、舞も唄も上手な源氏は自分が拒まれないと知っている。ニクイではないか。女も源氏の君となら、と心ほどけて許すのだが、この女性、源氏の仇敵、弘徽殿の女御の妹六の君で、兄東宮の妃となるべき運命のひとだった。このことが彼の失脚、須磨行きの原因となるわけで、恋が身をほろぼす一例。
これと同じくらいステキなのが、『和泉式部日記』。彼女は冷泉院の皇子二人に愛された恋の名手である。亡き為尊親王をしのぶ式部を見舞う弟帥宮(そちのみや)(敦道親王)とも恋に落ちてしまう。男が通うのが王朝物の常なのに、この宮は突然、式部を連れ去る。
「いざたまへ。こよひばかり。人もみぬ所あり。心のどかにものなども聞えん」とて車をさしよせて、たゞのせにのせ給へば我にもあらでのりぬ。
略奪される女の、気もそぞろな興奮が伝わる。式部が宮家に入ると宮妃が邸を出るといった騒ぎがあったが、この最愛の宮も数年たたぬうち二十七歳で亡くなる。
『和泉式部集』より。
つれづれと空ぞみらるる思ふ人あまくだりこん物ならなくに
くろかみのみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき
ちょっと有名な例を引きすぎたかもしれないが、以上ほとんど岩波文庫で読める。『曾根崎心中』や『赤と黒』や『ポオルとヴィルジニイ』や、若い人には読んでゾクゾクしてほしい「恋愛入門」本がまだまだある。私は小さな頃から古典の中の恋愛にときめいたことはよかったと思う。一つは、大きくなったら打掛姿の花嫁になりたい、などというケチな夢を追わず、もっとダイナミックに男と女がわたりあう恋のイメージを心に刻んだことである。
もう一つは、性がいけないこと、いやらしいこと、という入り方でなく、好きあった男女が合体したいと願うのはなんと自然ですばらしいことなのだろうという性のイメージを持ち得たことである。興味と刺激本位の週刊誌などで目をけがさなくてよかったと思う。
だから私はいかに苦しみ傷つこうとも恋に対して果敢であるが、その後の日常の中で恋を愛に作り替えていくのはじつに下手である。それというのも私がどっぷり浸かった古典の恋が極限状況にすぎるせいかもしれない。とはいえ、私はそのたびごとに反省はするが、後悔したことはないのである。
【初出】
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