書評
『ギンイロノウタ』(新潮社)
絲山秋子をして「紙くず」とまで言わしめるような小説を書いてしまった作家。それが村田沙耶香なんであります。
あれは「群像」における合評の席のことでした。村田さんの中篇「ひかりのあしおと」を評して「おもしろかった」と褒めた故川村二郎氏とわたしに対して、絲山さんは少し苛つきながらその言葉を口にしたのです。でも、それもむべなるかな。小学二年生の時、ピンク色の布地に包まれた怪人に公園のトイレに閉じこめられ、「ピジイテチンノンヨチイクン」という呪文を唱え続けられる異様な体験を持つ〈私〉を語り手にした、それはたしかに壊れた語り口の奇妙な小説だったからです。
書評家魂を発揮してきれいに物語を要約してしまうと、小説中に仕掛けられた悪意や狂気や不気味さのすべてがこぼれ落ちていってしまう。この世界におけるルールの一切と折り合いがつけられない、というか、つける気もさらさらないキャラクターに憑依しきった稚拙で支離滅裂な語り口によって、小説を読んでわかった気になりたい、共感したい、癒されたい、感動したい、蒙を啓きたいと思っている前向きな読者の気持ちを思いきり踏みにじる。いろんな意味、まともな読み手の神経を逆なでする小説を書いてしまう村田さんの行く末を案じつつ、でもその時、わたしは「新しい人を発見した」というワクワク感を覚えてしまったんです。
〈重い瞼の肉の隙間を、私の淀んだ黒目は湿った便所の隅で逃げ回っている虫の背中そっくりに這いずり回った。その動きが、相手に靴の裏で踏み潰して動きを止めてしまいたい衝動を与えていると思えば思うほど、目玉の上下は激しくなり〉
近所のおばさんに声をかけられただけで、こんなにも自意識過剰にして気味の悪い反応を示してしまう語り手の子供時代のエピソードを冒頭に置いた最新刊『ギンイロノウタ』でも、ワクワク感は高まるばかり。
先生が授業で使う銀色の伸びる指示棒を、人気アニメの主人公パールちゃんが持っているステッキに見立て、それで自慰することを覚える。極端に内向的な反面、パールちゃんのように男たちの視線を集めたいという欲望に身を焦がし、自室の押し入れの天井いっぱいに紳士服のチラシから切り取った男の目玉を貼りつける。まだ小学六年生なのに〈価値が低いなら私は安さで勝負するしかない〉と考える。そんな〈私〉の痛々しさを超えて気色悪いとしかいいようにないヰタ・セクスアリスと、それにともなって壊れていく精神の軌跡を描いて、これは相当剣呑な小説です。
偽善的な担任教師に覚えた殺意をノートに記して解消したのをきっかけに、やがては空想の殺人を書き綴るようになる〈私〉。パールちゃんが魔法のステッキで作り出すどこにでも行ける銀色の扉を、人の肉体の表面に見るようになり、指示棒をナイフに持ち替える〈私〉。精神を閉じて閉じて閉じた末に広がっている戦慄的なまでに寒々しい光景を、嫌悪感をさそう狂った語り口で描きながら、しかし、この小説の底からせり上がって読者を脅かすのは、語り手の狂気ではなく、異物を、自分は迷惑だからとこちら側からあちら側へと押し出すことに躊躇しない、この世界の圧倒的にリアルな残酷さなのです。そしてその読後感は、わたしを冒頭の一節へと立ち返らせるのです。
〈私が“化け物”だとして、それはある日突然そうなったのか、少しずつ変わっていったというならその変化はいつ、どのように始まったのか……〉
化け物小説家。怖れと畏れをこめて、わたしは村田沙耶香をそう賞するに躊躇しません。
【この書評が収録されている書籍】
あれは「群像」における合評の席のことでした。村田さんの中篇「ひかりのあしおと」を評して「おもしろかった」と褒めた故川村二郎氏とわたしに対して、絲山さんは少し苛つきながらその言葉を口にしたのです。でも、それもむべなるかな。小学二年生の時、ピンク色の布地に包まれた怪人に公園のトイレに閉じこめられ、「ピジイテチンノンヨチイクン」という呪文を唱え続けられる異様な体験を持つ〈私〉を語り手にした、それはたしかに壊れた語り口の奇妙な小説だったからです。
書評家魂を発揮してきれいに物語を要約してしまうと、小説中に仕掛けられた悪意や狂気や不気味さのすべてがこぼれ落ちていってしまう。この世界におけるルールの一切と折り合いがつけられない、というか、つける気もさらさらないキャラクターに憑依しきった稚拙で支離滅裂な語り口によって、小説を読んでわかった気になりたい、共感したい、癒されたい、感動したい、蒙を啓きたいと思っている前向きな読者の気持ちを思いきり踏みにじる。いろんな意味、まともな読み手の神経を逆なでする小説を書いてしまう村田さんの行く末を案じつつ、でもその時、わたしは「新しい人を発見した」というワクワク感を覚えてしまったんです。
〈重い瞼の肉の隙間を、私の淀んだ黒目は湿った便所の隅で逃げ回っている虫の背中そっくりに這いずり回った。その動きが、相手に靴の裏で踏み潰して動きを止めてしまいたい衝動を与えていると思えば思うほど、目玉の上下は激しくなり〉
近所のおばさんに声をかけられただけで、こんなにも自意識過剰にして気味の悪い反応を示してしまう語り手の子供時代のエピソードを冒頭に置いた最新刊『ギンイロノウタ』でも、ワクワク感は高まるばかり。
先生が授業で使う銀色の伸びる指示棒を、人気アニメの主人公パールちゃんが持っているステッキに見立て、それで自慰することを覚える。極端に内向的な反面、パールちゃんのように男たちの視線を集めたいという欲望に身を焦がし、自室の押し入れの天井いっぱいに紳士服のチラシから切り取った男の目玉を貼りつける。まだ小学六年生なのに〈価値が低いなら私は安さで勝負するしかない〉と考える。そんな〈私〉の痛々しさを超えて気色悪いとしかいいようにないヰタ・セクスアリスと、それにともなって壊れていく精神の軌跡を描いて、これは相当剣呑な小説です。
偽善的な担任教師に覚えた殺意をノートに記して解消したのをきっかけに、やがては空想の殺人を書き綴るようになる〈私〉。パールちゃんが魔法のステッキで作り出すどこにでも行ける銀色の扉を、人の肉体の表面に見るようになり、指示棒をナイフに持ち替える〈私〉。精神を閉じて閉じて閉じた末に広がっている戦慄的なまでに寒々しい光景を、嫌悪感をさそう狂った語り口で描きながら、しかし、この小説の底からせり上がって読者を脅かすのは、語り手の狂気ではなく、異物を、自分は迷惑だからとこちら側からあちら側へと押し出すことに躊躇しない、この世界の圧倒的にリアルな残酷さなのです。そしてその読後感は、わたしを冒頭の一節へと立ち返らせるのです。
〈私が“化け物”だとして、それはある日突然そうなったのか、少しずつ変わっていったというならその変化はいつ、どのように始まったのか……〉
化け物小説家。怖れと畏れをこめて、わたしは村田沙耶香をそう賞するに躊躇しません。
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