境界線概史
人間が設定し、記録に残っている最古の国境が世に知られるようになったおもな理由は、その国境が廃止されたからだ。もちろん、これが世界初の国境ではないだろう。人間は地図があればかならず境界線を引いてきたし、それ以前から、我々の祖先は川のこちら側が自分たち部族の土地であり、川の向こう側、はるか遠くには他の部族が住んでいることをはっきりと認識していた。しかし、ある程度の確信を持って初の国境だといえるのは、紀元前4000年紀にナイル川沿いの土地を区分した境界線だろう。この境界線の北側は下エジプトで、低地の河口三角地デルタが広がり、いっぽうの南側は上エジプトで、ナセル湖まで続く狭い高地を占めていた。境界線が引かれていたのは、現在のカイロのすぐ南、北緯30度線あたりだった。
しかし、紀元前3100年ごろ、この境界線は消滅した。おそらくナルメルと呼ばれていたメネス[ナルメルとメネスが同一人物かどうかについては諸説ある。後述]が上下ふたつの王国を統合して初代ファラオとなり、その過程で世界初、かつ、もっとも長く続く国家のアイデンティティを築き上げた。その後、数世紀にわたり、エジプトの支配者たちは二王国それぞれのシンボル色、赤と白を半々に組み合わせた王冠をかぶり、みずからを「二王国の君主」と称した。
この物語には注目すべき点がいくつかある。ひとつは、国境や境界、つまり、自分たちと別の集団を隔てる境界線は人類が誕生してからずっと存在してきたということ。もうひとつは、国境も境界線も実際の地形を考慮して決めたケースもあるが、境界が政治的アイデンティティによって形成されたのか、それとも、政治的アイデンティティが境界によって形成されたのか、明確ではないということ。そして3つめは、境界線は事実上消失したあとも長年にわたって影響を及ぼす可能性があるということだ。
しかし、本書で紹介する物語から得られるなにより重要な点は、時間や地理を超えて俯瞰すると、ほぼすべての境界線が意味をなさないほど不可解な存在になり得るということである。
「世界地図」の「見え方」はひとつではない
ここで、自宅でできるちょっとしたお楽しみを紹介しよう。検索エンジンに「世界地図」と入力して画像検索したら、なにが出てくるだろうか。たぶんまちがいなく、何種類かの平面地図が表示される――きっと、戸惑うほど色鮮やかな地図だ。ただ、検索エンジンは検索者が求めている世界地図を政治地図だと想定している。境界の基準は国境であり、国ごとに色を変えているため、色合い以外はどの地図もまったく同じだ。検索エンジンの前提は、我々が育った文化に深く根づいている。よって、それが単なる前提であると理解するのに少々時間がかかるかもしれない――しかし、あくまで前提だ。理論からすれば、国家の境ではなく、川や山など自然の地理的特徴に興味を持つ人だっている。我々は人間が住める領域で暮らしており、人が住んでいない、ときには概念だけで政治的に支配される場所よりも、実際に人が住んでいる場所――都市の地図や人口密度――に関心があるのだろう。検索エンジンは、検索者がもっとも知りたいのは、我々が国家と呼ぶ人工物についてだと仮定している。なぜなら、おそらく検索者の脳も同じように考えているからだ。
これはかならずしも我々の祖先が持っていた世界観ではない。もし、現在に至るまでずっと、正確な地図の作製が可能だったら、あるいは、インターネットの検索エンジンが利用できていたら、「世界地図」はまったく違ったものになっていただろう。そこで、具体的な境界線とその意味について深掘りするまえに、領土をいわゆる地図風に整理しておこう。
国家として認められる最古の政治組織――あるいは、少なくとも記録に残る最古の組織(もちろん、同じものではない)――は紀元前4千年紀に出現した。場所はナイル川流域からチグリス川とユーフラテス川がペルシア湾と合流するあたりまで広がる地域で、現在は「肥沃な三日月地帯」とも呼ばれている。のちに、他の川の流域でも別の文明が誕生した。パキスタンのインダス川流域を中心とするハラッパー文明や、黄河沿いに広がる中国初代王朝の文明だ。
こうした地域の支配者たちは、どの土地が確実に自分たちのもので、どの土地がそうでないかという認識を持っていたにちがいないが、支配力の範囲がぷつりと途切れる明確な線はなく、領土周辺はさほど権力が及ばない曖昧な地域だったようだ。さらに、境界線の向こう側に広がっていたのは、たいていは敵対国家ではなく、無人地帯や政治的に統制されていない遊牧民が暮らす場所で、侵入者の命を奪いかねない刺激的なものであふれていたのだろう。ともかく、昔はそもそも世界中の土地を占有するほど多くの人間がいなかった。我々が知る最古の境界線が、前述の上下エジプトの境界線であることはおそらく偶然ではない。ナイル川流域は、たがいにぶつかり合う敵対国家を支えられるほど肥沃で繁栄した数少ない地域のひとつだったのだ。
こうした状況――広大な陸地の海に国家という島々が浮かんでいる――は人類史の誕生からずっと続いてきたようだ。古代の大帝国は、可能なかぎり山や川など自然の特徴を土台に境界線を設置する傾向があった。ローマ皇帝ハドリアヌスの長城や中国の万里の長城のように、人工的に作った境界線は、国家間の境目を示すというより、秩序と混沌の境界を示すものであり、人民をなんらかの形で統率し、人間と自然に対する君主の支配力をただ強調するためのものでもあった。2001年にアメリカの歴史家ジョン・ミアーズが記したところによると、中国の漢王朝はその長城を「明確で連続した線ではなく、むしろ防疫線、つまり、君主が国家のおよその境界と定めた線を、人間や物品が越えないよう制限するものだとみなしていた」。500年後、ユーラシア大陸の反対側では全国家がローマ帝国に加わり、境界内でフォエデラティ(従属王国)としての地位を確立した。こうした帝国の力は強大だったが、境界線という概念は、我々があたりまえになっている概念に比べるとはるかに弱いものだった。
また、国家――政治と民族および言語の境界が一致するよう組織化した世界――は我々が想像するより遅れて誕生した。いま、我々ははるか昔に統合した西ヨーロッパの2か国、イングランドとフランス(どちらも1000年以上の歴史を持つ)が築いた世界に住んでいる。「西暦1000年のヨーロッパ」のようなタイトルがついた、誤解を招きやすい現代風地図の影響もあって、中世ヨーロッパは現在のヨーロッパに似た対立国家システムで構成されていたと想像しかねない。しかし、近世まで「国家」はあきらかに曖昧な概念だった。農奴制や奴隷制で縛られていない人なら自由に移動できたが、町や領土は、征服、和平条約、婚姻による同盟などによって貴族間で絶えず取引されていた。イングランドやフランスでさえ、国家の境界線は我々が考えるよりもずっと長いあいだ曖昧なままだった――考えてみれば、のちにマンチェスターやリヴァプールなどイギリスの主要都市を生み出したランカシャーがドゥームズデイ・ブック[世界初の土地台帳。イングランド王国を征服したウィリアム1世が実施した検地の記録]に記載されていないし、史上もっとも有名なイタリア人のひとり、ジュゼッペ・ガリバルディ[19世紀後半のイタリア統一運動で活躍した軍事指導者]はニッツァ(現フランスのニース)で生まれている。
1500年ごろの慌ただしい数世紀のあいだに、人々の世界観を根本的に変える一連の出来事が起こった。ひとつは、道具と印刷技術の改良のおかげで地図が大幅に改善されたことだ。おかげで、たとえば、一族が自分たちの土地所有権を主張するために地図を利用したり、政治指導者が自分の支配圏を以前より空間的に認識したりできるようになった。
もうひとつの変化は、人々の、少なくともヨーロッパ人の、国家に対する考えかただ。封建制から中央集権制へと移行した政府形態が一因だったかもしれないが、宗教改革も大きなきっかけとなった。しかし、ある時点で、ヨーロッパ大陸の大部分が「漠然とした、おそらくは存在しないキリスト教国の支配下にある世界」という感覚が、「独立した主権国家で構成される世界」という感覚に変わった。この推移は1648年のヴェストファーレン条約[ヨーロッパの主権国家体制が確立したとされる]の影響だとみなされているようだが、誰もが知っている歴史でありながら、まったくの誤りである可能性もある。関連する条項には、主権についてほとんどなにも書かれていないのだ。
いずれにせよ、1700年ごろには、地図では国境が他の境界線よりも太い線で示されるようになっていた。そして初めて、土地について知っておくべき最重要事項は、そこがどの国に属しているかということに変わった。同時に、ヨーロッパ大国はどこにも属していない国境の外側を次々と飲み込んでいった。いまや国家が最重要となり、すべての土地がどこかの国に属し、国家は単なる政治単位ではなく、文化的アイデンティティの源になった。
ヨーロッパの拡大と帝国主義を通じて、国家はすぐさま―少なくとも相対的な意味で―世界全体を定義づけるようになった。19世紀初頭、トマス・ジェファーソン率いるアメリカは、単に地図に線を引いて境界を設定し、入植者に土地を分配した。19世紀末までに、ヨーロッパ列強はアフリカ――大陸全体――をほぼ同じ方法で分割した。イギリス元首相ソールズベリー侯の言葉は、イギリスの伝統にのっとり、この恐ろしい出来事についておもしろおかしく皮肉をこめながらも、止めるつもりはなかったことを明確にしつつ、分割の結果を的確に要約している――「我々は白人がいちども足を踏み入れたことのない場所の地図に境界線を引いてきた。山や川や湖をたがいに譲り合ってきたが、ひとつ、小さな障害があった。山や川や湖がどこに位置しているのか、正確には知らなかったのだ」。当時でなければ、この感情は意味をなさなかっただろう。いまや、地図だけに頼って世界を分割などできない。
もちろん、最終的に帝国は崩壊した(そう、ほとんどは。中国、ロシア、アメリカは存続しているといっていい)。しかし、帝国が地図に描いた線の多くは生き残っている。現在の地図では地球の陸地がおよそ193に区分されているが、ほとんどが誕生からまだ2世紀たっていない。さらに、各国や地域が境界線は明確であるだけでなく、地球を分割する唯一の現実的な方法だと強く主張している。
国境や境界を言葉で表す難しさ
海岸線の長さを正確かつ議論の余地なく測ることは不可能だ(ただ、ズームインして、より正確な測定値を得たり、遠くからは見えない細部を見たりすることならできる)。同様に、たとえ文字数が無制限でも、過去や地理に不可思議な点がある境界の歴史をすべて綴ることはできない。物事は圧縮し、要約する必要がある。したがって、本書の解説は決定版ではなく、単に興味をそそられた項目を私自身が選択したにすぎない。私が興味深いと思ったなら、読者もそうだろうという仮説に基づいている。同様に、どの物語を収めるかについても慎重に考えた。本書は、題名はさておき、世界史総論ではない。まったく触れることができなかった世紀や、すべて省略せざるを得なかった文明もある。こうした穴は、本を出版するさいにつきものである時間や分量の制限、そして、繰り返しを避けたいという衝動の表れでもあるが、本音をいえば、私自身の人間としての限界、そして、私がイングランド人、イギリス人、ヨーロッパ人、西洋人、白人であるという事実も後押ししている。私は自分の快適ゾーンから一歩踏み出し、世界に存在する問題の大半が多かれ少なかれ私のような人間に原因があると認めるよう努めてきたが、それでも本書は私の偏見を伴う私の歴史である。もし読者のお気に入りの国境や境界、文明を見逃していたら、お詫びするほかない――続編でこの過ちを訂正できるよう、本書を友人や家族全員に贈ってほしい。
また、これから記す解説は、過去から現在まで続く単純で直線的な時系列の歴史ではないこともあらかじめ伝えておく。多くの物語があまりにも長い時間をかけて展開されているため、読者を苛立たせ、混乱させるような形で国境から国境へと飛び移るほかなかった。実際、解説のほとんどは、飛び飛びの歴史と現世界の状況が織り交ざっている。
とはいえ、本書の第1部「歴史」はおおよそ年代順になっている。古代から20世紀までに引かれた非常に興味深い境界線をいくつか取り上げた――物語を進めるうえで、概念としてとくに重要だと感じた境界線もあれば、現在、我々が暮らす世界を形成するうえで重要な役割を果たした境界線もある。
第2部「遺産」では、こんにちも世界に影響を与えている境界線について解説する――軍事上の潜在的な火種になったり、さほど恐ろしくない外交政策上のジレンマをもたらしたり、あるいは、単に地図で見ると奇妙でわかりにくい線になったりしている点が興味をそそる。
最終の第3部「外界」では、足元にある地面の支配権争いとはあまり関係のない、別種の境界、つまり、日付と時間帯に関する時間的境界、海と空の境界、そして最後に、宇宙の境界について考察する。本書ははるか遠い過去から始まり、未来に目を向けて幕を閉じる。
本文の内容を解説してきたが、用語について簡単な注意書きをしておく。まず、厳密な意味でいえば、境界(boundary)と国境(border)には微妙な違いがある。境界とは、ダラム大学国際国境研究ユニット(IBRU)所長フィリップ・スタインバーグの言葉を借りれば、「ふたつの領土の境目を示す太くない線」であり、いっぽう、国境とは、ある国から別の国に渡るために通過する線である。前者は分割、後者はつながりを意味する。そのため、物理的な境界線から数百キロも離れた空港内に、国境を越えようとしていることを知らせる標識がある。両者の相違は注目に値するが、本書ではほぼ無視して同じ意味で使用する。
また、「中東」という表現はあきらかに問題がある。特定の時代、場所、考えかたに根ざしたヨーロッパの世界観を前提としているからだ。考えればすぐにわかるが、アメリカの東側の大部分がいまでも「中西部」と呼ばれているのと同様、不合理だ。さらに混乱するが、現在、中東と呼ばれている地域の大部分――かつてオスマン帝国が占領していた地中海東部一帯――は、以前、「近東」と呼ばれていた。そこで、「西アジア」、「南西アジア」、「スワナ[SWANA、アジア南西部および北アフリカ]」等、含みの少ない言葉を使うことも真剣に考えた。しかし、「アジア」はもともと現在のトルコを指す言葉だった。いまトルコをそう呼べば、多くの読者が困惑するだろう。それに、大事なのは明確性だ。したがって、境界/国境の区別と同様、細かい事情は無視して一般的な言葉を用いる。わざわざこう書いたのは、そう、仕方なかった、と伝えたかったからだ。わかってほしい。
最後に、本書のタイトル自体が誤解を招くだろう。まえもって認めなければならない。本書には47項あるが、そのうちいくつかは複数の国境について扱っている。人類が地図に引いてきた線は無数にある。したがって、本来なら取り上げる国境の数も同じでなければならない。
我々はみな、世界地図、あるいは、自分の住む地域の地図は見慣れている。自分の暮らしている地区がどこで終わり、その先に別の地区が続いていることをじゅうぶん理解している。そのため、区切りとなる線が山、川、海岸のような自然の地形に沿っているのだろうと想像しがちだ。しかし、実際はそうではない。こうした区切りの源は、土地の物理的な状態ではなく概念であり、動物や宇宙人には見えない。さらに、創造したものは消失する可能性がある。その境界線が生まれる以前にも歴史はあった。そして、その境界線がもはや存在しなくなる時代がやってくる。
いかなる国境も、必然から生まれたわけでもなければ、永遠に続くわけでもない。国境は作為的かつ偶発的に生まれ、多くの場合、戦争や条約、あるいは、疲れ果てたひと握りのヨーロッパ人の決断が別の方向を指していたら、まったく違ったものになっていたかもしれない。国境は束の間で消えることもあれば、何世紀にもわたって存続することもある。おかしなものもあれば、不条理なものもあり、また、数百万人の死者を出す原因となったものもある。
こうした国境の物語を知れば、人間の虚栄心や愚かさについて多くを学べるだろう。ある世紀には明確で永続的に思えたものが、のちの世紀にはいきあたりばったりでバカげたものに見えてくる。境界線の歴史は、短期的な権力政治や自尊心を理由に下した決断が、その後、数十年または数世紀にわたって現実世界に影響を及ぼす可能性があることを教えてくれる。そして、人類史上初の国境が実際にどんな意味を持っていたかを考えるには、5000年前、カイロのすぐ南にあった地域が最良のスタート地点になりそうだ。
[書き手]ジョン・エレッジ(ジャーナリスト)
イギリスのジャーナリスト。ケンブリッジ大学トリニティ・ホールで英文学学士号。ロンドン・カレッジ・オブ・コミュニケーションでジャーナリズムの修士課程を修了。『ニュー・ステイツマン』誌の元副編集長、現在はフリーランスとして、『ガーディアン』、『フィナンシャル・タイムズ』などに寄稿。