読書日記
尾上修悟 『「社会分裂」に向かうフランス 政権交代と階層対立』(明石書店)、桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす 混血する古代、創発される中世』(筑摩書房)
フランスの分裂と武士の起源
×月×日
恒例通り、正月はパリで。到着の翌朝、いつものように馴染みのカフェで朝食をとる。以前はジェルメーヌという、一見(いちげん)の客に対しては接客態度が非常に悪いが馴染みになれば非常に親切という、農民的メンタリティ丸出しのオバサマがいて、なかなか注文を取りに来てくれないため、怒った客が席を立つという光景は日常茶飯事だったが、なぜかクビにもならずに仕事を続けていた。フランスでは労働協約が労働者側有利にできているので、どんなに接客態度が悪くても、無遅刻無欠勤ならクビにすることは出来ないと聞いていたので、めでたく年金生活に入ったのかと思っていた。しかし持参した尾上修悟 『「社会分裂」に向かうフランス 政権交代と階層対立』(明石書店 二八〇〇円+税)を読むと、あるいはクビになったのかも知れないと思えてきた。というのも、先のオランド政権で行われた改革の一つが、企業の国際競争力を高めるという口実で実施された労働のフレキシブル化政策で、これによりジェルメーヌのような臨時雇いは容易に解雇出来るようになったからである。では、オランド政権の政策とはどのようなものだったのか?
二〇一二年に国民の期待を担って誕生したオランド政権は、EUとりわけドイツの公的赤字は対GDP比三パーセント以内にするという強い要請を受けて財政緊縮政策をとった。その一方で、企業の労働コスト(社会保障負担)と法人税を下げてその減税分を一般社会保障負担税と付加価値税の引き上げで補うCICEをスタートさせた。これは労働コストを低め、企業収益を増大させ、雇用を増やし失業率を低下させるはずだったが、企業は労働コスト低下と減税で浮いた利益を内部留保してしまった。結果、企業の国際競争力も向上しなかった。反対に、CICEの原資確保のために実施された付加価値税の増税と社会保障費の家庭負担増および公共支出の削減は確実に効果を発揮して、家計の購買力減少をもたらし、経済成長の低下・雇用減少のマイナスサイクルを引き起こしたのである。これに先の労働のフレキシブル化政策が加わったから、パートと臨時雇いが増大し、「オランド政権の下で貧困者は減るどころか逆に増え、同時に彼らの生活水準を引き上げることはできなかった」
かくて、二〇一七年の大統領選では社会党人気は地に落ちた。共和党もフィヨンがスキャンダルで失速し、国民戦線のマリーヌ・ル・ペンと極左の「不服従のフランス」のメランションによる決選投票かと思われたが、結果はオランド政権で経済産業大臣だったマクロンが「前進」をたちあげ、八方美人の公約でブッチギリ当選。国民議会選挙も過半数を制覇した。
では、マクロン新政権が打ち出したのはいかなる政策かといえば、これが、オランド政権の財政緊縮(社会的支出の削減)、企業優遇に加えて、トリクルダウン効果期待の連帯富裕税引き下げという金持優遇策。住民税の引き下げもうちだしたが、財源を確保するために一般社会保障負担税引き上げを減税以前に、しかも住民税減免の前から行うというのだから民衆の負担は明らかに増大するのである。
だが、こうした政策の失敗以上に問題なのは、大統領としてのマクロンの資質である。「マクロンは、オランド政権下の経済相時代に、独自の平等観を表した。彼のヴィジョンは、もしすべての人が出発点で同じチャンスを与えられれば、不平等は労働の質によって正当化されるというものである。この観点から、人々がより平等を欲することは、他の成功者に対する嫉妬を高めるとみなされた。(中略)他方でマクロンは、以上のような独自の平等観から、フランスのすべての人に億万長者になる望みを持つように促す」。マクロンはトリクルダウン効果を固く信じているのである。マクロンの労働観もこれから演繹される。マクロンは額に汗して働けば労働者は豊かになれると主張し、休日労働を奨励し、労働時間短縮の撤廃を訴える。さらに、企業の解雇権を拡大し、労働組合潰しを狙う。これに加えて公共サービスの民営化、市場原理の導入を目論む。要するに、これまでフランスが営々として築いてきた労働者の天国というモデルをぶち壊し、日本型モデルの導入を図ろうというのである。これでは労働者が反発するのも無理はない。
果たせるかな、マクロンがガソリン税の増税を延期したために下火になったかと思われたジレ・ジョーヌ(黄色いチョッキ)のデモが年明けとともに再び荒れ狂い、私が泊まっているサン=ジェルマン界隈でもジレ・ジョーヌが警官隊と衝突し、車道に瓦礫やガラス片が散乱している。
現在のフランスを知るために緊急に必要とされる一冊である。
×月×日
「新潮45」騒動で連載が中止となったが、私はまだ家族類型から見直す日本史という構想を諦めてはいない。とりわけ日本型直系家族をもたらした武士の誕生というものには興味がある。桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす 混血する古代、創発される中世』(ちくま新書 九八〇円+税)はこの意味で好奇心を刺激される一冊である。著者は昔の教科書にあった「地方の富裕な農民が成長し、土地防衛のために武装した」という説も武士は朝廷の衛府(えふ)から生まれたとする説も証拠がないと退ける。著者が注目するのは、武士の本質が弓馬の術にあったことである。「重要なのは、弓馬の術が、農業の片手間に農民が扱える代物ではないということだ」。ここから、弓馬兵の供給源は初期には皇族と廷臣、後期は騎射能力を持つ郡司とその子弟などや富豪百姓だったという結論が出る。著者はこれらの階層を有閑弓騎階級と命名する。
しかし、これは武士の下部構造の成立にすぎず、上部構造が解明されねばならない。
では上部構造とはなにか? それは子沢山の桓武天皇から生じた王臣家の爆発的増加である。朝廷のポストには限りがあるので、増えすぎた王臣家子孫は国司や受領となって地方に赴任する。桓武平氏や嵯峨源氏・清和源氏がこの起源にあたる。しかし初期の平氏や源氏がそのまま武士化したわけではない。武士の誕生には、中央から赴任する王臣家と彼らを迎える地方豪族との間に結ばれた特異な婚姻形式が与(あずか)って力あった。双系制ないしは母系制の名残である妻問婚がそれである。たとえば桓武天皇の第三皇子・葛原(かずらはら)親王の孫の高望(たかもち)王は臣籍降下して平朝臣となり、受領として上総に向かった。「当時の婚姻が妻問婚(招婿婚)だったことが重要だ。この形は、京下りの王臣子孫の現地土着(留住)に極めて有利だった。王臣子孫は身一つで現地に下り、現地有力者の娘と縁談がまとまれば、妻の実家に居座って、妻の実家の経済力・政治力に依存して生活できる。(中略)一方、卑姓の現地有力者は、高望を婿に迎えれば、間に生まれる自分の孫が、桓武天皇の玄孫(孫の孫)という、地方では圧倒的な貴姓の王臣子孫になれる」
ところで、現地有力者というのももとをただせば、高望と同じような妻問婚で土着した王臣子孫の末裔であり、墾田永年私財法により、土地と農民を収奪して財を築いた有閑弓騎階級であった。しかし、これだけの要因では武士の成立を解明するにはまだ足りない。最後に弓矢の道、名をこそ惜しめという武士の精神を外部注入する存在が必要だった。著者は初代征夷大将軍・坂上田村麻呂の家系や田村麻呂の副将である多治比氏などの「累代の将種」が現地豪族の娘という母系を介して平氏と源氏に流れ込んだと考える。かくて、次のような結論がくる。
武士とは、こうして、【貴姓の王臣子孫×卑姓の伝統的現地豪族×準貴姓の伝統的武人輩出氏族(か蝦夷)】の融合が、主に婚姻関係に媒介されて果たされた成果だ。武士は複合的存在なのである。
通説を撫で斬りにする痛快な歴史書である。
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