コラム
筑波 常治、堀尾 尚志、応地 利明、田村 善次郎、篠沢 純太、香月 節子、田中 泯、榧野 八束『すき・くわ・かま―土に生きるかたち (INAX BOOKLET ’ 91-No.1)』(アルシーヴ社)、香月 節子・香月 洋一郎『むらの鍛冶屋』(平凡社)
あたたかな道具
丸っこい目の一年坊主の息子が、「しっばっしっもっやっすっまっずっ」とスタッカートで歌う。育成室で習ったとかで壊れたレコードよろしく一日中くり返す。歌詞をちゃんと書いてみよう。
しばしもやすまず
槌打つひびき飛び散る火花よ
走る湯玉ふいごの風さえ
息をもつがず仕事に精出す
村のかじや
「ちょとあんた、しばしってどういう意味、ふいごとか湯玉ってわかる? 精出すってどんなこと」と聞いてみたらナーンも知らない。「村の火事屋って、土を打って村に火を付けて歩く人でしょ」などというので絶句した。
担任の先生は「この歌はもう教材にはないんですよ。でもリズムが良くてみんな好きね」という。私も「村の鎮守の神様の……」とか「森の木陰でどんじゃらほい……」とか好きだったもん。東京のまん中で生活実感に遠ければ遠いほど、自然の循環の中に生きる村の生活に憧れたものだ。
たまたま神田神保町の「書肆アクセス」(地方・小出版流通センター直営店)(ALL REVIEWS事務局注:2007年閉店)に行ったら薄いパンフレットの『村の鍛冶屋』(佐藤次郎、クオリ・コインブックス)があった。中学生の息子が、「村のかじや」をコンクールで歌うのに感じがつかめないので、鍛冶屋の仕事場を見に行くというお誂え向きの設定。
これによると平クワを作る仕事の手順は、▶松炭を火床(ほど)に積み上げ付木で火をつける。▶ふいごで火床に風を送る(息をもつがず)。▶金敷の上に平クワをのせ、なべはがねのかけらを刃先に並べ、かなばしではさんで焼く。▶真っ赤なトロトロの飴のようになった刃先にワラ灰をふりかけ、横座(よこざ)と向槌(むかいづち)の二人で叩く(トンテンカン、トンテンカン)。▶刃先を三日月形に切りとり刃の裏をけずってとがらせる。▶もう一度刃先を焼き、水の中につけて焼き入れる(ここで湯玉がシュッと走る)。
とこれを図解で説明してやったら、息子はようやく歌の趣旨が飲み込めたようだ。
「ああこのクワって去年、タケノコ掘りで使ったよね」とうれしそう。
もう少し絵が欲しいと思ってたら、『すき・くわ・かま』(INAX BOOKLET'91-No.1)を見つけた。このシリーズは面白いテーマを安く、カラーで見せてくれて私のお気に入り。
昔の農具が木の握り棒(万葉集に出てくる布久志(ふくし))に始まり、ヘラ状になり、石包丁が作られ、鉄器の導入と畜力利用によって格段に進歩したが、鉄は大変貴重で刃先だけに用いた、など概略がわかった。トロツキーのお墓にもスキとクワが彫ってある、なんてことまで教えてくれた。
この中の「農機具のモダンタイムス」に篠沢純太さんが面白いことを書いている。ワープロで「すき」を漢字に変換すると「好き」のあとに「鋤」それから「犂」とでてきて一体どの文字が「スキ」なのかわからない。一方「くわ」を入れるとやはり「鍬」「鋤」が出てきちゃう。私が辞典でひいたら両方とも「農具の一種」で片づけられていた。つまり「現代の都会に住む人間にとって、鋤、鍬、犂の文字を正確に読み分け、書き分けられないほどに、こうした農器は実生活とはかけ離れた道具になっている」。なるほどね。この文部省唱歌も昭和五十五年から教材をはずされるわけだ。つづけて篠沢さんは、
すき――掘る、耕す――突く
くわ――耕す、除草する――打つ→耕うん機、トラクター
鎌――除草する、刈る――切る→バインダー、コンバイン
と農の三種の神器を整理してくれたので助かった。
今度は、図書館の民俗学の棚に『むらの鍛冶屋』(香月節子・香月洋一郎、平凡社)とどんぴしゃりの題の本があった。高知県大豊町の三千点にのぼる農具を、一つ一つ作り手や使い手の古老から聴き込んでカード化することから生まれた愛情深い本である。その多くは隣り町土佐山田町で作られた。百数十年前、むらの誰かが技術を身につけ、ひと世代、ふた世代を経るうち鍛冶屋の集落となったところだ。鍛冶屋の火床(ここではほくぼという)は農閑期の語りの場であった、とか、むらむらを回り農具を直して歩く渡りの鍛冶屋のナワバリなどきっちり調べられている。
この本を読む私のそばで、息子も気に入りのマンガ、ガンダムの武器よろしく、クワやカマをいくつも書き並べながら、また歌う。
あるじは名高い
働きものよ早起き早寝の
やまい知らず長年きたえた
じまんの腕で打ちだすすきくわ
心こもる
「働き者よ」「心こもる」をなんだか子どもが偉そうに……。前掲書の香月さんは、鍛冶屋の姿に郷愁や挽歌を見てはいない。現役の職人のもつ勢いと張りに圧倒されている。私も町の職人の話を聞くといつも圧倒されるのだ。そしてこれをマスコミのおちょぼ口で「消えてゆく技術」だの「現代人の忘れた何か」などと言ってほしくないと思う。手づくりの道具のあたたかさがよみがえる日はたぶん来る。陶芸のように鍛冶にのめり込む人も出るだろう。この歌はそんな元気のでてくる歌だ。
【このコラムが収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする
初出メディア




































