書評
『ウンベルト・エーコの文体練習』(新潮社)
書評の文体練習
学海余滴といふものがある。わかりやすく言ふと学者の随筆ですね。偉い先生が専門の研究の合間に書いた、こぼれ話のやうな随筆のことで、わたしはこの手の文章を読むのが好きだ。煙草をすひながら学問のエッセンスを楽しめる。無学な人間が学問のウンノウを垣間見ることができる。もつとも、さうした余技を偽物だと軽蔑する人種もゐて、難しい言ひまはしを使つて専門書を書くことだけが本物の学問であると思ひこむ。かたや余技に憂き身をやつす人間は、偽物であることを誇りとして、本物を自認する学者たちから一歩距離を置く。かうして学者には、本物と偽物の二つのタイプができるわけです。ところがこの両者は、簡単にひつくりかへることもあつて、どちらが本当の本物でどちらが本当の偽物かどうかは、それゆゑ見る人の判断次第といふことになる。
たとへばウンベルト・エーコといふ記号学者は、その伝でゆけば、偽物でありかつ本当の本物であるやうな学者の代表格だ。彼の著作には、『記号論』や『開かれた作品』といつた専門書があるかと思へば、『薔薇の名前』や『フウコオの振子』といつた堂々たる小説もあり、さらには雑誌や新聞に書き散らした相当な数の記事がある。それも政治や社会についての、時事的な発言が多い。西欧の本物学者からすれば、エーコは本物ならずと言ふところでせうが、エーコ本人からすれば、イタリアの学者は偽物であることが本物だと信じてゐる。だからわれわれとしては、『記号論』が厄介だからといつて学者工ーコを敬遠する必要はない。『薔薇の名前』が小説としての味はひに欠けるからといつて小説家工ーコを断罪する必要はない。すなはち、エーコとは幾つもの声を持つた谺(こだま/Eco)なんですね。(うん、これは我ながらうまくいつた。)
この『ウンベルト・エーコの文体練習』は、さういつたエーコの手妻の見本市とでも言ふべき書物です。レイモン・クノオの『文体練習』をお手本にして、ありとあらゆるパロディをやつてみせる。なかなかの藝達者だと舌を巻くしかありません。たとへばナボコフの『ロリータ』のパロディで『ノニータ』。ここで原作の少女趣味が老婆趣味に変形されてゐることに、ナボコフの愛読者は腹を立ててはいけない。ここはやはり腹を抱へて笑ふのが礼儀といふものでせう。終りにさりげなく添へられた(一九五九年)といふ年号も曲者で、これは『ロリータ』のイタリア語訳が出版された年なのだ。かういふ敏捷さが、エーコの美徳だとわたしは思ひますね。なを、エーコ自身も語り手ウンベルト・ウンベルトとしてこつそり作中に紛れこんでゐるが、これはナボコフ十八番の手法を盗んだもの。老婆心までに付け加へておきます。わたしが大笑ひしたのは、マンゾオニの『いひなづけ』をジョイスの『ユリシーズ』と『フィネガンズ・ウェイク』の味つけで料理した一篇。この珍品を賞味するだけでも、大枚千八百円也をはたいた値打はある。
それにしても、こんな書評を引き受けるんぢやなかつた。エーコに張り合つて誰かの文体模写をやつてみるといふ手は余りにも見え透いてゐるし、かといつて表紙のエーコの似顔絵を記号学的に分析してみるといふ案も突飛すぎる。あれこれ悩んだ挙句が、この平凡な文章です。やはりこの仕事は、丸谷才一か清水義範に頼むのがよかつたのではないでせうか、編集者殿。
最後に翻訳について一言。これだけの多彩な文体をきれいに訳し分ける、和田忠彦の才能にはびつくりした。この人も、きつとエーコと同じで、偽物かつ本当の本物なのに違ひない。
【この書評が収録されている書籍】
図書新聞 1993年2月20日
週刊書評紙・図書新聞の創刊は1949年(昭和24年)。一貫して知のトレンドを練り続け、アヴァンギャルド・シーンを完全パック。「硬派書評紙(ゴリゴリ・レビュー)である。」をモットーに、人文社会科学系をはじめ、アート、エンターテインメントやサブカルチャーの情報も満載にお届けしております。2017年6月1日から発行元が武久出版株式会社となりました。
ALL REVIEWSをフォローする











































