書評
『エーコの文学講義―小説の森散策』(岩波書店)
エーコ先生の講義を読む
ぼくがカルヴィーノの『次の千年のための六つのメモ』をニューヨークの本屋の店頭で偶然見つけたのは一九八八年の六月のことだった。出版されたばかりのその本は、カルヴィーノが「ノートン・レクチャーズ」で行う講義のための草稿だったけれど、その直前、彼は急死したのだ。
ぼくは『六つのメモ』を手に入れると、泊まっていたアルゴンクィンホテルに戻り、頁を開いた。
アルゴンクィンは雑誌「ニューヨーカー」御用達のホテルで、部屋といわず廊下といわずその表紙の原画がかけてあった。カルヴィーノの唯一の評論集『文学の効用』の表紙に、ソール・スタインバーグが「ニューヨーカー」のために描いたドローイングを使っていたことを思い出しながら、カルヴィーノの思いのすべてを語り尽くした『メモ』をぼくは、ほんとうに時の経つのも忘れて読んだのだった。テレビはつけておいた。静かすぎるのがイヤだったからだ。音をしぼったテレビの画面からはポルノ専門チャンネルの出張売春や(その頃日本にはまだなかった)テレクラの広告が流れ続けていた。そこに出てくる売春婦たちがみんなとても魅力的なのが不思議だった。
「チャールズ・エリオット・ノートン・ポエトリ・レクチャーズ」は一九二六年に始まったハーヴァード大学の集中講義で、これまでの講師の中にはエリオット、ストラヴィンスキー、ボルヘス、ノースロップ・フライ、オクタビオ・パスの名前も見える。カルヴィーノはその講壇に立つ最初のイタリア人となるはずだった。
幻の講義から八年、最初のイタリア人講師となったのが、あのウンベルト・エーコ先生であり、その講義録が今回出版された『エーコの文学講義』(和田忠彦訳、岩波書店)だ。
エーコ先生は講義をカルヴィーノの思い出から始め、小説という虚構の森の散策の仕方を少しずつ解きあかしていくのだけれど、内容については実際に読んでもらうしかない。
けれどこのことだけはいえる。「複雑で高度な内容を、簡単に楽しく説明する」――これがエーコ先生の戦略だ。そして、これはカルヴィーノの戦略でもあった。いや、そして二人のマエストロも認めてくれるだろうけれど、小説もまた「複雑で高度な内容を、簡単に楽しく説明」してくれるものでなければならないのである。
だから、エーコ先生の『講義』は小説にもよく似ている。講義最終回をエーコ先生はこういう話でしめくくる。
……館長が、ひとつびっくりさせるものがありますよと言って、プラネタリウムへと案内してくれたのです。……。ふいにあたりが真っ暗になったかと思うと、デ・ファリャの美しい子守り歌が流れてきました。ゆっくりと(すべては一五分で終わったのですから、現実よりもほんの少し早かったのですが)わたしの頭上で空が回りはじめました。それはわたしが生まれた夜、イタリアの、アレッサンドリアの、一九三二年一月五日から六日の夜空でした。……。もしかしたらあのときわたしは、何百冊もの本のページのあいだをさまよいながら、あるいはそこかしこの映画館のスクリーンに目を凝らしながら、だれもが捜しもとめている物語を見つけたのかもしれません。……。あれは小説の森だったのです。できるものなら、そのまま二度とあそこから抜け出したくはないと思いました。ですが、人生というやつは、わたしにとっても、そしてみなさんにとっても、なんとも残酷なもので、ここにこうしてわたしがいるというわけです。
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