書評
『性のプロトコル―欲望はどこからくるのか』(新曜社)
先日、テレビで高校生の性についての特集を見た。インタビューのなかで、ある女子高校生は情事中に「愛している」と言ってしまい、後になって恥ずかしくて仕方がなかった、と告白した。行為を恥じないのに、言葉に差恥心を感じることにはショックを受けた。「愛している」は日本文化のなかで、それほど非日常的な表現なのかもしれない。映画やテレビドラマのせりふならともかく、現実生活のなかではたしかに誰も言わないようだ。なぜなのか。著者はそのことを切り口に小説、映画、漫画ないし流行歌の分析を通して、近代日本において恋愛、ジェンダー、セクシュアリティはいかに新しい「規範」として作り上げられたかを論じた。
記号論やフェミニズム批判理論に刺激された論考にしては、難解な用語は少なく、文章も読みやすい。ただ、まだ常用されていない片仮名言葉が所々出てくる、プロトコルは本来パソコン用語で「通信条件」のことである。本書では規範という意味で用いられている。現代日本人が持っている恋愛観、婚姻観、家庭観が西洋的な思考のもとで形成されたことは、これまでたびたび指摘されてきた、だが、著者の説はもっと徹底している。すなわち、純潔恋愛と肉欲という対立の図式は、明治の欧化主義のもとで作り出されたもので、純愛礼賛はひとつの価値として現在の漫画にまで広く受け継がれているという。恋人を選ぶとき、なにを重視すべきかという質問に対し、性格や趣味の一致を挙げる人は少なくないであろう。この優等生的な考えもじつは新しい「規範」で、その本質はキリスト教的な思惟にもとつく「性の抑圧」だと著者はいう。
「近代」に対して、「伝統」として想定されたのは江戸文化である。本書によると、江戸社会には地女(じおんな)と遊女という、女の範躊の細分化があった、地女はセクシュアリティを持たず、もっぱら生殖、育児と家事が任されていた。それに対し恋は遊女とのあいだにのみ成立していた。それを変えたのは愛と性が一致するという西洋の神話である。子どもが愛の結晶で、男は家族を守らなければならないといった倫理観もハリウッドのような大衆文芸によってもたらされた新しい通念である。なぜなら、江戸の恋物語に見られるように、伝統的には子どもの排除によって愛が表象されてきたからだ、という。
恋する男たちの赤面についての論考は本書のクライマックスである、江戸時代では男が女性のまえで赤面することは「うぶ」として否定的に語られていた。しかし西洋文学では男が愛する女のまえで赤面するのは当たり前のことである。ツルゲーネフ『初恋』もトルストイ『アンナ・カレーニナ』もそうであった。近代日本はその影響で価値観が百八十度転換した、男の赤面を青春のメタファーとする設定は明治大正文学に例が多い。二葉亭四迷『浮雲』、島崎藤村『桜の実の熟する時』、田山花袋『蒲団』などは恋する男の赤面のオンパレードだ、と著者は指摘する。しかも、明治文学によって制度化された「性的赤面」は吉川英治『宮本武蔵』のような通俗文学や『ドラゴン・ボール』など漫画の領域まで浸透し、現在でもなお有効である。
江戸時代には変わりやすいのは男心だった。明治二十年代後半から大正のはじめのあいだに徐々に「女心と秋の空」へと変化した、なかでも夏目漱石の『三四郎』『こころ』『それから』などの作品によって男を裏切る女が制度化され、「女心と秋の空」への変化を決定的なものにした、という論考も読み応えがある。
西洋文化の奥底にあるキリスト教的な思考によって、近代日本の恋愛ないし性観念が成立したとする論述はきわめて明快で、興味深い。だが、近代化によって伝統/因習はすべてなくなったわけではない。その意味では比較文化研究にはつねに問題を単純化してしまう危険性がひそんでいる。事実、恋人同士のあいだの肉体関係の忌避、気質の相似を恋の条件とする考え、恋人を友人ないし「兄妹」関係に見立てることや、恋する男の赤面などは西洋文化の影響がなくても、東アジア文化では絶対ありえないことではない。そのことは『紅楼夢』を読めば明らかである。西洋文化の影響によって日本の美意識がいかに変わったかを論じることも大事だが、同時に受容しても変わらなかった点に目を配ることもまた必要であろう。すべてを西洋文化の呪縛とする見方は少々疑心暗鬼になり過ぎてはいないか。
現代の若者にとって、明治・大正文学はすでに「異文化」になりつつある。『浮雲』や『蒲団』を理解するのは、『ロミオとジュリエット』を理解するよりも難しいかもしれない。一口に欧米文化の影響とはいっても、明治、大正と戦後とくに現代では受容の仕方がまるっきり違う。そうした問題を考える上で、本書は多くの刺激に富む視点を提供してくれる。
【この書評が収録されている書籍】
記号論やフェミニズム批判理論に刺激された論考にしては、難解な用語は少なく、文章も読みやすい。ただ、まだ常用されていない片仮名言葉が所々出てくる、プロトコルは本来パソコン用語で「通信条件」のことである。本書では規範という意味で用いられている。現代日本人が持っている恋愛観、婚姻観、家庭観が西洋的な思考のもとで形成されたことは、これまでたびたび指摘されてきた、だが、著者の説はもっと徹底している。すなわち、純潔恋愛と肉欲という対立の図式は、明治の欧化主義のもとで作り出されたもので、純愛礼賛はひとつの価値として現在の漫画にまで広く受け継がれているという。恋人を選ぶとき、なにを重視すべきかという質問に対し、性格や趣味の一致を挙げる人は少なくないであろう。この優等生的な考えもじつは新しい「規範」で、その本質はキリスト教的な思惟にもとつく「性の抑圧」だと著者はいう。
「近代」に対して、「伝統」として想定されたのは江戸文化である。本書によると、江戸社会には地女(じおんな)と遊女という、女の範躊の細分化があった、地女はセクシュアリティを持たず、もっぱら生殖、育児と家事が任されていた。それに対し恋は遊女とのあいだにのみ成立していた。それを変えたのは愛と性が一致するという西洋の神話である。子どもが愛の結晶で、男は家族を守らなければならないといった倫理観もハリウッドのような大衆文芸によってもたらされた新しい通念である。なぜなら、江戸の恋物語に見られるように、伝統的には子どもの排除によって愛が表象されてきたからだ、という。
恋する男たちの赤面についての論考は本書のクライマックスである、江戸時代では男が女性のまえで赤面することは「うぶ」として否定的に語られていた。しかし西洋文学では男が愛する女のまえで赤面するのは当たり前のことである。ツルゲーネフ『初恋』もトルストイ『アンナ・カレーニナ』もそうであった。近代日本はその影響で価値観が百八十度転換した、男の赤面を青春のメタファーとする設定は明治大正文学に例が多い。二葉亭四迷『浮雲』、島崎藤村『桜の実の熟する時』、田山花袋『蒲団』などは恋する男の赤面のオンパレードだ、と著者は指摘する。しかも、明治文学によって制度化された「性的赤面」は吉川英治『宮本武蔵』のような通俗文学や『ドラゴン・ボール』など漫画の領域まで浸透し、現在でもなお有効である。
江戸時代には変わりやすいのは男心だった。明治二十年代後半から大正のはじめのあいだに徐々に「女心と秋の空」へと変化した、なかでも夏目漱石の『三四郎』『こころ』『それから』などの作品によって男を裏切る女が制度化され、「女心と秋の空」への変化を決定的なものにした、という論考も読み応えがある。
西洋文化の奥底にあるキリスト教的な思考によって、近代日本の恋愛ないし性観念が成立したとする論述はきわめて明快で、興味深い。だが、近代化によって伝統/因習はすべてなくなったわけではない。その意味では比較文化研究にはつねに問題を単純化してしまう危険性がひそんでいる。事実、恋人同士のあいだの肉体関係の忌避、気質の相似を恋の条件とする考え、恋人を友人ないし「兄妹」関係に見立てることや、恋する男の赤面などは西洋文化の影響がなくても、東アジア文化では絶対ありえないことではない。そのことは『紅楼夢』を読めば明らかである。西洋文化の影響によって日本の美意識がいかに変わったかを論じることも大事だが、同時に受容しても変わらなかった点に目を配ることもまた必要であろう。すべてを西洋文化の呪縛とする見方は少々疑心暗鬼になり過ぎてはいないか。
現代の若者にとって、明治・大正文学はすでに「異文化」になりつつある。『浮雲』や『蒲団』を理解するのは、『ロミオとジュリエット』を理解するよりも難しいかもしれない。一口に欧米文化の影響とはいっても、明治、大正と戦後とくに現代では受容の仕方がまるっきり違う。そうした問題を考える上で、本書は多くの刺激に富む視点を提供してくれる。
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