書評
『中井久夫集 1 『働く患者――1964-1983』』(みすず書房)
脆弱性に照準した関係性の倫理
中井久夫集全十一巻が出ると知って嬉(うれ)しい悲鳴を上げている愛書家は少なくないのではないか。評者も自分の書斎では、まさに座右の一角を「中井久夫コーナー」にあてている。ここに新たに十一巻ぶんのスペースを空けるのは容易なことではない。中井久夫と言っても、もはや知る人ぞ知る存在ではあるまい。党派性を超えた畏敬(いけい)のまなざしを向けるのは、同業の精神科医ばかりではない。本書に収録されたほとんどの文章を、評者はすでに繰り返し読んでいる。中には中井が三〇歳になったばかりの年に上原国夫の筆名で出版された『あなたはどこまで正常か』に収められた文章もある。この巻は中井の最初期作品群ということになるのだろうが、すでにして端倪(たんげい)すべからざる知性の片鱗(へんりん)が至るところに覗(のぞ)く。
収録された文章のうち、個人的に思い出深いのは、「世に棲(す)む患者」「働く患者」の二編である。いずれも私の専門とするひきこもり臨床において絶大な影響をもたらした。この二編には、臨床家・中井の倫理のありかがはっきりと示されている。
倫理と言っても、PC(ポリティカル・コレクトネス)のような、皮相的かつ操作的なそれとはまったく異なる。例えば中井は次のように書く。「一般に生産活動よりも消費活動のほうがコミュニカティヴおよびクリエイティヴな価値が高い」と。治療上は、仕事よりも遊びのほうが大切、ということだ。休職中のうつ病患者が友人と遊びに出かけるとすぐに批判が飛んでくるこの国で、こうした断言は数多(あまた)の患者を勇気づけずにはおかないだろう。
あるいは中井は「健常者」の語を用いず「非患者」という。決して声高に語られはしないが、そこには人間すべてが患者でありうるという「脆弱(ぜいじゃく)性」への配慮が見て取れる。どういうことか。
生命倫理のとらえ方には、アメリカとヨーロッパで決定的な違いがあるとされる。その一つが「脆弱性」を巡る考え方である。自律的な個人を理想とするアメリカ的倫理観では、脆弱な個人は例外で、パターナリスティックな保護の対象となる。しかし「バルセロナ宣言」にみるとおり、ヨーロッパ的倫理観では「脆弱性」こそが自律性の前提とみなされる。すべての人間は脆弱性を抱えており、それゆえ他者と関わり、時に依存し合う必要があるのだ。
このとき倫理とは、ただの「真理」から「関係性」の位相へとその位置付けを変えるだろう。すなわち中井の倫理観とは、自らを含む人間の脆弱性に照準した、関係性の倫理にほかならない。
この視点に立つなら、中井の主たる業績が関係性を巡るものであることに気づかされる。もの言わぬ患者とのやりとりを豊かにすべく発案された「風景構成法」は、中井の代表的な業績の一つだ。その知性は、翻訳と代弁に、すなわち何らかの媒介者たる立場にあるとき、もっとも強い輝きを放つ。本書で言えば、さきの二つのエッセイは患者の立場を代弁するものだった。これに加え、サリヴァン、井村恒郎、神谷美恵子についての文章がこれにあたる。
神谷美恵子は「病人の呼び声」を聴いたと言うが、ウィルス学から精神医学に転向し、論文のための研究はすまいと決意して臨床現場に身を投じた中井青年の耳にも、同じ声が響いていたことは疑い得ない。その残響が聞き取りうる限りにおいて、中井の文章は、日々新たに読まれるべきものである。
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