書評
『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか―擬態するニッポンの小説』(幻冬舎)
久々に清新でわかりやすい文学批評に出会った。ゴシップ本を思わせるような書名だが、文学賞選考の舞台裏を詮索する内容ではない。村上春樹が芥川賞を受賞しなかったことを通して、戦後文学に共通する心性を読み解こうとしたものだ。
多くの読者にとって、村上春樹が芥川賞を逃したのは不可解なことであろう。だが、本書によると、それは決して偶然でも不思議なことでもない。日本文学の流れから考えるとむしろ当然の結果だという。
当時の選評を読むと、『風の歌を聴け』(講談社)や『1973年のピンボール』(講談社)が選に漏れたのは、「アメリカ的なもの」が作品に強く出過ぎたことが原因のようだ。だが、著者はそのことに疑問の目を向けた。なぜなら、それと相前後して、村上龍『限りなく透明に近いブルー』(講談社)が受賞したからだ。基地の町で米兵やコールガールに囲まれて生きる若者たちを活写した作品。アメリカ文化の浸潤を描いた点では村上春樹に勝るとも劣らない。
明らかに「アメリカ的なもの」が原因ではない。では、本当の理由は何か。
加藤典洋はかつて、戦後の日本文壇は「アメリカなしにはやっていけないという思いを」「アメリカなしでもやっていけるという身ぶりで隠蔽している」と言ったことがある。著者はその言葉を引用し、田中康夫『なんとなく、クリスタル』(芥川賞候補、河出書房新社)も引き合いに出して、選考委員たちが村上春樹の作品を毛嫌いする原因を解き明かしている。『限りなく透明に近いブルー』に描かれた基地の青年の放埒な生活に「屈辱(はぎしりすること)」が秘められているとすれば、田中康夫『なんとなく、クリスタル』の主人公たちの享楽的な生き方は「依頼(たよりにすること)」を背景にしている。ただ、どちらも本質的には「アメリカではないもの」という自己規定を前提にしている。そこには文化の自己同一性の根拠が成り立っている。
それに対し、『風の歌を聴け』ではもはや日本人とアメリカ人の区別はほとんどなく、文化の自己同一性の主張は最初から放棄されている。そのような小説があらわれたのは史上はじめてで、七〇年代の終わりから八〇年代の初頭にかけて、日本文学が求めていたものに著しく反している、その意味では、選考委員たちの反発はごく自然な反応で、しかもその判断がまちがっているわけではない。
江藤淳の議論を踏まえ、村上春樹の小説が「父」をめぐる問題と関連しているという指摘も興味を引く。かりに昭和天皇の人間宣言が父性の喪失を象徴しているならば、戦後、アメリカは「強い父」として登場してきたといえる。「強い父」=アメリカを「私」の外側に作り出すにせよ、「恥ずかしい父」を描き、あるいは「父」の喪失を宣言するにせよ、「父」のいる/いないは、ずっと戦後文学の底流にあった。それに対して、村上春樹は一貫して「父にならない主人公」を描き続けている、もし、彼が「父」を描くことができていたら、あるいは「父」になる姿を描いていたら、とっくにその賞は彼のものになっていたはずだ。それができなかった/しなかったところに、村上春樹の倫理があった。それが著者がたどりついた結論だ。
近代文学の特殊性を明らかにするために、戦前や明治時代にさかのぼり、太宰治『走れメロス』と漱石『坊っちゃん』についても分析が行われた、切り口の鋭さ、論証の鮮やかさ、展開の力強さにおいてはやはり村上春樹論のほうが上だ。
【この書評が収録されている書籍】
多くの読者にとって、村上春樹が芥川賞を逃したのは不可解なことであろう。だが、本書によると、それは決して偶然でも不思議なことでもない。日本文学の流れから考えるとむしろ当然の結果だという。
当時の選評を読むと、『風の歌を聴け』(講談社)や『1973年のピンボール』(講談社)が選に漏れたのは、「アメリカ的なもの」が作品に強く出過ぎたことが原因のようだ。だが、著者はそのことに疑問の目を向けた。なぜなら、それと相前後して、村上龍『限りなく透明に近いブルー』(講談社)が受賞したからだ。基地の町で米兵やコールガールに囲まれて生きる若者たちを活写した作品。アメリカ文化の浸潤を描いた点では村上春樹に勝るとも劣らない。
明らかに「アメリカ的なもの」が原因ではない。では、本当の理由は何か。
加藤典洋はかつて、戦後の日本文壇は「アメリカなしにはやっていけないという思いを」「アメリカなしでもやっていけるという身ぶりで隠蔽している」と言ったことがある。著者はその言葉を引用し、田中康夫『なんとなく、クリスタル』(芥川賞候補、河出書房新社)も引き合いに出して、選考委員たちが村上春樹の作品を毛嫌いする原因を解き明かしている。『限りなく透明に近いブルー』に描かれた基地の青年の放埒な生活に「屈辱(はぎしりすること)」が秘められているとすれば、田中康夫『なんとなく、クリスタル』の主人公たちの享楽的な生き方は「依頼(たよりにすること)」を背景にしている。ただ、どちらも本質的には「アメリカではないもの」という自己規定を前提にしている。そこには文化の自己同一性の根拠が成り立っている。
それに対し、『風の歌を聴け』ではもはや日本人とアメリカ人の区別はほとんどなく、文化の自己同一性の主張は最初から放棄されている。そのような小説があらわれたのは史上はじめてで、七〇年代の終わりから八〇年代の初頭にかけて、日本文学が求めていたものに著しく反している、その意味では、選考委員たちの反発はごく自然な反応で、しかもその判断がまちがっているわけではない。
江藤淳の議論を踏まえ、村上春樹の小説が「父」をめぐる問題と関連しているという指摘も興味を引く。かりに昭和天皇の人間宣言が父性の喪失を象徴しているならば、戦後、アメリカは「強い父」として登場してきたといえる。「強い父」=アメリカを「私」の外側に作り出すにせよ、「恥ずかしい父」を描き、あるいは「父」の喪失を宣言するにせよ、「父」のいる/いないは、ずっと戦後文学の底流にあった。それに対して、村上春樹は一貫して「父にならない主人公」を描き続けている、もし、彼が「父」を描くことができていたら、あるいは「父」になる姿を描いていたら、とっくにその賞は彼のものになっていたはずだ。それができなかった/しなかったところに、村上春樹の倫理があった。それが著者がたどりついた結論だ。
近代文学の特殊性を明らかにするために、戦前や明治時代にさかのぼり、太宰治『走れメロス』と漱石『坊っちゃん』についても分析が行われた、切り口の鋭さ、論証の鮮やかさ、展開の力強さにおいてはやはり村上春樹論のほうが上だ。
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