書評
『世界史のなかの産業革命―資源・人的資本・グローバル経済―』(名古屋大学出版会)
高賃金国が成功した理由
産業革命は人類史を大きく二つに分ける画期的な出来事である。しかし、不思議なことに、それが中国やインドでもなく、またフランスやオランダといった一七世紀のヨーロッパの大陸先進国でもなく、小さな島国であるイギリスで起こったのはなぜなのかという点についての説得的な説明がなされていないのである。もちろん、社会構造、制度と所有権、科学革命、啓蒙主義、合理主義、消費革命、人口動態などの観点からの説明はあるが、どれも必要条件ではあっても十分条件といえるようなものではない。では、オックスフォードの経済史の大家である著者が新手法教科書シリーズの一冊として書いた本書は十八世紀のイギリスに産業革命を起こさせた原因を何に求めているのか?
一つは一八世紀のイギリスが高賃金経済の国であったこと。もうーつはイギリスが安価な石炭に恵まれていたこと。この二つのイギリス固有の事情が他の必要条件に十分条件として加わったために産業革命が起こったとしているのである。事実、一八世紀のイギリスとフランスを比べると科学革命、啓蒙主義、消費革命などの分野では大差はない。フランスでも機械の発明はなされていたが、労働カが安すきて機械導入に資本を投下する必然性に欠けていた。「イギリスの高賃金は(中略)労働を資本とエネルギーで代替する技術への需要を誘発していたからである」
しからば、なにゆえにイギリスは高賃金国となっていたのか? 教科書的説明では①開放農地の囲い込みと大規模農場の出現→②農業生産の増加と農業雇用の減少→③都市化→④経済成長の順に変化が起こって農業革命が成就され、イギリスが高賃金国となったということになっていたが、著者は方向が逆だと考える。
まず世界貿易の拡大があり、次いで都市工業の成長、農業生産性の上昇、そして最終的に大規模農場と囲い込みを結果するというものであった。都市が農村を変化させたのであって、逆ではない。
こうした農業革命の説明に典型的に表れているように、著者は生産よりも需要のファクターを重視する立場に立ち、同じ思考法で高賃金国のイギリスが産業革命に成功した原因を解明していく。すなわち、高賃金国イギリスは労働力節約を迫られ、それが機械導入に道を開いたとするのである。
しかし、機械を動かすにはエネルギーが要る。このエネルギー・コストがオランダのように高価だったら、機械も利用に至らなかっただろう。イギリスはこの点で恵まれていた。安価な石炭が手に入ったからである。
しかしながら、石炭がイギリス国内に大量に埋蔵されていたとするだけでは説明不十分である。石炭需要が「すでに」になければならないのだ。「17世紀におけるもっとも重要な石炭利用は家庭用暖房におけるそれであった」。エネルギーが木炭から石炭に替わったとき、煙突を備えた新設計の建物が普及して石炭需要をつくりだしていたのである。かくて「イギリスにおける高賃金の重荷は、安価なエネルギーによって相殺され」、ここに産業革命の十分条件が整ったのである。
本書の結論はいかにも教訓的だ。二一世紀においても産業革命は必ずや高賃金国から起こるはずである。ならば、人口滅少で高賃金化必至の日本にも希望がなくはない。
産業革命研究を大きく転換させるに十分な、目配りの行き届いた名著である。(眞嶋史叙、中野忠、安元稔、湯沢威 訳)
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